夏目純一さん(長男)と夏目伸六さん(次男)の描く「夏目漱石」の微妙な違い
申すまでもなくエッセイストとして定評があるのは次男
の夏目伸六さんである。父親の漱石について、あるいは漱
石と直接関係がないエッセイも含め、多くのエッセイ、そ
れをまとめた何種類かの単行本が刊行されている。角川文
庫からの「父・夏目漱石」はその代表的な本だろう。その
「あとがき」にもあったが、新板にはもうないが、伸六さ
んによる「あとがき」に
「君はずるいよ、何も書かないなんて」佐佐木茂索さん
んから絞られたが、無論、私も自分を何も書けぬ人間とは
思っていない。ただ獅子文六先生のように「伸六君は立派
な天才を持っている」と過言されては答えるすべを持って
いないのである。だが先生はその直後「だが彼は全くそれ
を伸ばそうとしない」と言われているのである。
この「あとがき」はもう新板の角川文庫には収録されて
いないようだ。だがこういう記述もどこかにあったと思う。
「いくら文才があっても努力しない奴じゃ仕方がないよ」
と文藝春秋の佐佐木茂索さんが・・・・・
確かにエッセイストとしての夏目伸六さんは天才的だが
小説が書ける人とは思えない。小説を、読者が感歎、深い
感動に誘うように見事に仕上げるのは本当ん難しいもので
並の努力では不可能だろう。
で、エッセイストの夏目伸六さんに対して、長男の純一
さんは、物書きではない。ときどき、頼まれて漱石の思い出
、それに絡めたエッセイを書いていたがエッセイストではな
い。では何?ヴァイオリニストだという。
伸六さんと純一さんを比べて個性的なのは伸六さんである
のは疑いはない。伸六さんのエッセイ、漱石の死に際し、
「私は父の死など少しも悲しくなかった。葬儀に出ねばな
らなかったが、友達との遊ぶ約束が気になって仕方がなかっ
た。悲しくもないから涙など出なかったが、いつの間にか、
となりの兄が嗚咽を始め、泣いているのを見て孤立感にさい
なまれた」
獅子文六が「伸六君は立派な天才を持っている」と云った
のは紛れもない事実である。だが、・・・・・・「伸ばそうと
しない」佐佐木茂索「いくら文才があっても努力しないような
奴じゃ」となる。だが、そのエッセイは絶品だ。
ただ長男の純一さんには子供がいた。長男の夏目房之介さん
である。私はこの房之介さんのキャラクターが叔父の伸六さん
に似ていると思う。その自在な、枠からはみ出た生き方、その
個性である。
で、伸六さんのエッセイに描く漱石はあの通りだ、絶品だ、
で音楽家となった純一さんの描く漱石は伸六さんほどエッセ
イとして個性あるものではないが、実は貴重な内容を含んでい
る。
父、漱石について、・・・・・とにかく怖かったの一語、は
伸六さんの思いと同じであるが、記録的な意味で貴重な文章を
書かれている。
岩波書店の宣伝誌というのか、1993年10月号「図書」、岩波
がまた新たな漱石全集を出すというので「漱石」特集号であった。
伸六さんはもう亡くなられていた。
「ところでずっとテニスを一緒にしている仲間の一人ですが、
その方が最近『君は夏目というけど、あの漱石と何か関係でも
あるんですか?親戚かい?』と聞いてきたんです。それで私は『
じゃ、千円札の漱石の顔と私の顔を比べて下さい』と云った。そ
うしたら、その人、横地さんといいますが千円札を出して見比べ
てもさっぱりわからない」
私だって中学生時分から漱石の長男は夏目純一と知っていたが、
親しく付き合う友人、東京の人が夏目純一さんが漱石の長男と知
らない、なんてあり得るのか、と怪訝に思った。だが純一さんは
漱石の長男であることなどよほど吹聴しなかったのだろう。それ
は孫の房之介さんにも共通するが、そう簡単にことは運ばないも
のである。
その「図書」に寄稿された純一さん「父のことなど」は格別、
初めて聞くような話はない。フランス語を仕込むといってそん
な学校に行かされたが、暁星?かな、もう漱石の短気、怒りっぽ
さはどうしようもなく、泣かされただけ、ということである。
漱石が亡くなったあたりのこと伸六さんも詳しく書かれている
が、、純一さん
「父が死んだのは、私が小学三年のときで、危篤というので女
中が学校まで呼びに来ました。・・・・帰って父の枕元に座らさ
れましたが、まわりの空気から重大なことという認識は僕にもあ
りました。でも伸六は遊びに行くことばかりで、ただでさえ枕元
はごったがえしていて、邪魔になるというので離れにいないさい、
となりました。・・・・・そのとき、芥川さん、久米さんも離れ
待機組でした。待っている間、芥川さんはお化けの話をしてくれ
ましたが、あの顔でお化けの話ですから本当に怖くて・・・・。
久米さんは絵を描いて遊んでくれました」
これは伸六さんも書いていないことだ。やや年長という利点は
あっただろうか。
「いよいよ最期というので父のところに呼ばれ、死に水ってあ
りますよね、弟には声がかからなかったんですが、僕は水を含ん
だ筆で父の口を拭かされました」
進学の方向も伸六さんとは異なっていて、伸六さんが全く書か
ない事実が多くある。その中で
「私は寺田寅彦さんや和辻哲郎さんが一番好きでした。クソ真
面目という感じがしない、いい人でした」
「僕は18歳からベルリンで10年ばかり音楽の勉強をしました」
そこ和辻哲郎ににた人を日本人倶楽部の食堂で見かけ、話しかけ
たらやっぱり和辻さんでした」
「ベルリンにはフリードリヒ街という華やかな通りがあり、そ
こには街娼が立ってました。和辻さんはいつも通るので街娼に気
づかない、というのか立っている女性が街娼と知らない。そこで
私が街娼だと教えてあげて、・・・・和辻さんは一度、試したら
街娼が反応しない。おかしいと思ったら、バス停留所で待つ人に
サインを出していたそうで、こりゃだめだと、あきれたり、吹き
だしたり」
とまあ純一さんはベルリンで10年、音楽の勉強と伸六さんとは
異次元の経験をされているのである。
岩波書店の岩波看板の字、それを岩波茂雄さんが漱石に頼んだ
が、漱石も書くがさっぱり満足なものが書けない。いらいらしど
おしの岩波茂雄さんは漱石の書き散らした反故を適当に持ち帰り、
その中から看板の字を決めた、というエピソードは純一さんが拾
は「彷書月刊」にも書かれていたが、これは1993年10月「図書」
への寄稿が早いようだ。岩波茂雄という人は大変なせっかちだっ
たという。
漱石は酒は全然、飲めなかった。逆にタバコはよく飲んだ。
その胃弱はタバコが原因している、と思える。芥川も元来は全く
の健康体が過剰なスモーキングでああなった、だがタバコは表に
でにくいものだ。
とにかく漱石は怖かった、これは伸六さんと同じ、長男という
ことで可愛がられたこともないという。「純一」という名前も小
宮豊隆さんが「純一無雑」という漱石愛好の言葉から選んでくれ
て、だそうだ。
純一さん、怖い漱石を長く恨んでいたが、精神科医が『漱石の
病跡』という本で漱石は躁鬱病と書いていた、それを読んで「そう
か、精神疾患だったのか」と自ら慰めたとのことである。
伸六さんは庶民的なスタンスの漱石に付いてのエッセイ、純一さ
んは書いている量は圧倒的に少ない、またベルリン長期滞在という
およそ庶民からかけ離れた経歴で、多少異なる視点の文章がそれな
りに貴重だ。
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