上林暁さんに見る私小説の真髄、近眼鏡の文学と誠実主義

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 小説家自身の身辺の周囲、また半自伝的な作品というなら
日本に限らず、世界中、それらは見られるだろうが、日本の
近代文学における「私小説」は世界文学にありふれた身辺小
説法、半自伝とは異なる奇怪な凄みがある。それを果たして
小説と呼ぶべきか、随想と呼ぶべきか、そのボーダーが問題
になるほど現実を離れた創作性と無縁を極める。

 その私小説作家の代表的存在の上林暁さん 1902~1980,
高知県出身、旧制中学は現在の中村高校、それから第五高等学
校、東大英文、雑誌『改造』の編集者、ちょっと考えたらエリ
ート的に思えるが、全く気取らぬ庶民性が売りである。私小説
作家としては尾崎一雄さんと並び称していいのでは、と思える。

 書き記していた文学的決意

 「自分の文学は、独創的な文章は持たぬ。これは千載の恨事
である。しかし独自な人間修行をすることによって、その缺を
補いたい」

 「新しさや古さ、鋭さや鈍さ、そんなけじめは、作品の価値
にとって些々たる小事だ。作品の価値を決定するものは、窮極
において全人格的な全人間的な力だ」

 上林暁さんはまさしく、この文学的決意のとおりに生き、死
んだわけであろう。確かに誠実な人だった、という。どこをど
う押しても叩いても、愚直なまでの誠実さだった。しかし1962
年、還暦の年に脳出血、以後、病床にあった。もう話すに話せ
ず、手足も不自由、妹さんのその介護看病の『兄の左手』とい
う本はベストセラー的になった。だがその後も、創作意欲は衰
えずであった。左手はまだ多少は動いた。介護の妹さん、睦子
さんがそれを判読、読み上げる。それを本人が修正、また直し、
妹さんが読み上げる。なんとも辛苦、手間がかかる創作活動を
続け、作品を生み出した。その結果の『白い屋形船』で1965年
、読売文学賞、『ブロンズの首』が1974年、第一回川端康成文
学賞、とあの病床にありながらのどこまでも現役作家として生
き抜いた。

 文学的決意、「独自な人間修行」、「全人格的、全人間的な
力」を見事に証明したと云えるだろう。

 芥川の私小説についての論考の文章、「嘘でないということ
は芸術上、何の意味もないことだ」は確かに正論なのだが、上
林さんは嘘を何より、きらった。文学作品から嘘を追放しよう
とした。それについては柴田錬三郎さんと論争もされた。それ
をいうと、たしかにどうしようもないのだが。小説とは創造的
な嘘を書くものだ、という柴田さんの主張、これはこれで常識
だrとうが、上林さんは反駁した

 「私はどちらかと云えば、真実をタネに小説を書く方である。
私の小説における真実と嘘の割合は一、二の例外を除いては十
対0、もしくは九対一くらいで、八対二になることはまずない」
というのである。

 あまりに日本の私小説的信念というべきで久米正雄が「私小説
以外の小説は信用できない」と云ったのと同じ趣旨だろうか。だ
が嘘から出たまこと、はある。これなくしては小説家は飯の食い
上げだろう、が上林さんは迷いはなかった。だが嘘というから、
何か悪いことみたいなので要は「想像力」である。当然だと思う。

 「大体、私は空想力だとか、推理力は欠いている。だから嘘が
書けないのである。私に多少でも能力があるとすれば、それは
観る力、感じる力である。私は観る力、感じる力を主とする実感
を重んじる作家である」1962年4月6日、

 観る、感じる、だがそれは自らの身辺に限られる。広い世界に
それは全く及ばないのだ。上林文学は「近眼鏡の文学」と揶揄も
された。

 エリートコースとも言える経歴だが、流行作家になるまい、そ
の要素を自ら切り落とした強固な庶民性だろう。自分を貧しい私
小説作家に生涯、限定した。まさに類稀な克己心というのかどう
か、私小説こそ日本の近代文学を矮小で卑屈なものとした、それ
はそれで事実だろうが、その孤塁を守り抜いた上林文学が否定さ
れる道理もないだろう。優れた想像力、創作力は欠けていた、だ
から自己の資質にどこまでも忠実であり続けた、上林暁さんであ
る。誠実至上主義の作家だった。

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