薄田泣菫『茶話』Kindle、(富山房1989)倉敷市出身の詩人、また編集者。新聞、雑誌に長期間にわたって掲載のコラム、短文周
まず薄田泣菫とは、である。私は長く思い違いで岡山県足守
の出身かと、だが現在の倉敷市南部、の連島(つらじま)、こ
の地は水島地区の西に隣接、高梁川を隔てて玉島地区に隣接の
位置関係である。男子フギュアスケートの選手も輩出、わりと
スポーツ選手が出ている場所である、・・・・・だが正直、交
通が不便、どこに行くのもアクセスが悪い場所とも言える。
それはさておき、明治にはまだ浅口郡だった、その連島の生ま
れ、その地に生家が存在し、倉敷市が保存管理している。
連島だか高梁川を隔てている玉島が近い。利用駅は玉島駅(
現在の新倉敷駅)だったはず、連島から倉敷駅は遠すぎる。
玉島高等小学校から岡山一中に、だが中退。上京し、図書館で
学ぶ、そこで樋口一葉も見たというから年代は古い。島崎藤村
などととも明治の詩壇を牽引、与謝野晶子も影響されたという。
1906年、明治末期に京都で結婚、以後、詩作殻と遠ざかる。以後
後、新聞社を渡り歩き、大阪毎日新聞経、その学芸部長に就任し、
芥川龍之介を招聘、その作品発表の場を提供した功績は大きい。
知れば知るほど、偉大な文学者、文学に貢献した人物とわか
る。
さて、「茶話」というくらいで短文である。wikiでは薄田泣菫
を「随筆家」としているくらいである。
薄田泣菫は大正時代にはいり、國民新聞社、帝国新聞社、大阪
毎日新聞社などに、最後は大阪毎日に落ち着き、学芸部長となっ
った。で、大正四年、1915年から昭和5年、1930年にかけて毎日
新聞などにコラム、短文を掲載した。そのタイトルが「茶話」な
のだが、それが1984年、昭和59年に冨山房から刊行された。それ
は大きな驚きでもあった。まさか、また薄田泣菫の「茶話」が読
めるとは、である。
現在はAmazonのKindleで読める。一括ダウンロードは500円ほ
ど、年度別でダウンロードは無料、0円購入となる。Unlimitedで
はない。
その大正14年、1925年度版をちょっと見たら
女優と花束
女優の舞台生活というものは、表と裏がちがっていて、どこの
国でもからくりが多いものだが、女優ノウド・アダムスの話によ
ると、ある時この人の一座で出し物の名は忘れたが、人気のある
脚本の一つを演じたことがあった。幕がしまると、女優の一人が
おそろしく機嫌を損ねた顔つきで、自分の男衆に向かって、何か
口やかましく我鳴りたてていた。アダムスがその男にどうしたの
か、と聞くと、男衆はふくれっ面をしていた。
「なにね、今夜いだいた花束が九つしかなかったので、あんな
にむくれていたんですよ」
「何が不足だったのかね」
「いえね」と男衆はくすぐったそうに笑いながら「あの人は花
屋に十個分の花束の代金を払っていたと云うんです」
だいたい、こんな具合の小噺めいたものだ。「茶話」はながく
15年間にわたって書き継がれた。まだあまり読んでいないし、ま
さか全部読める道理もないが。このコラムは新聞大躍進時代と重
なっているという。なるほどと頷ける、深みのある話はとくにな
いようだ。中野好夫氏が岩波の「図書」に連載したコラムほどの
クセも深度もないが、日々の新聞には好適だったのであろう。
倉敷市連島の薄田泣菫の生家

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