村松梢風『殿下』1961,戦時下、戦後の皇族を描いた幻の小説、救いがたい世間知らず

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 これは村松梢風の幻の小説である。1961年発表、昭和36年
であり、60年安保の翌年である。

 この小説の主人公となるのは戦時中に「空の宮様」と呼ば
れた滝本宮靭彦殿下だ。外見がそれらしい貴族的、公家的な
風貌、品の良さ以外に、格別何の取り柄もない。戦前と戦時
中は皇族という、明治以降の日本では絶対的特権を存分に享
受した人物である。何と言っても明治以降の日本は非常に特
異な時代であった。その環境で特権を特権とも思わず、異常
を異常とも感じない、驚くべき奇怪な人間に育っていた。

 少年時代、国から与えられたお屋敷の中で早熟に育ち、乱脈
な女性関係を極め、さらに海軍士官時代は伯爵令嬢との婚約の
一方的破棄も何の影さえ心に残さなかった。

 戦時中は「空の殿下」として特攻隊員へのもっともらしい訓
示を与えたことも、別に戦後の心境に反省を与えなかった。

 つまるところ、全くの世間知らずで「菊のカーテン」の内側
でまさに安泰に暮らしてきた「極楽とんぼ」の主人公は45歳で
敗戦を迎えた。八人の子供、という大家族、さらに妃殿下は九
人目のお産とせんごの生活のやりくりの心労が重なって死んで
しまった。

 その少し前から、闇物資を手土産に、お屋敷に出入りし始めた
のが海軍兵学校同期の進藤元中佐、その紹介で銀座の女性店主で
未亡人の東条鏡子を知った。ごちそうを振る舞われたり、キャバ
レーに案内されたりで、その誘いで香水事業に乗り出す。

 その間にダンサーの由莉を知って大いに惹かれる。さらに、鏡
子とも関係ができる。殿下の名前利用の申し出にも快く応じる。

 さりながら香水事業は大失敗、ダンサーの由莉は女優転進で、
殿下など捨てる。その数年後、もはら蘭の栽培に熱中の殿下に由
莉から手紙が届く。由莉は女優になったが肺の病におかされ、し
がないアパートで病床についている。訪問し、激しい性行為の挙
げ句、由莉は死んでしまう、という具合だ。

 多分、モデルがいたはずだ、戦前は川島芳子をモデルの小説を
書き、結果として彼女を死刑に導いた事情通の村松梢風だ。実録
と小説化が目的として分散していると思う。しかし、何がいいと
云って、ここまで終戦後の日本の世相に通じているという魅力で
あろう。戦後世相の断面である。コンセプトとしての欲望礼賛で
あるのは、いかにもという感じ、村松梢風らしい。

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