坂口安吾「狂人遺書」1955,秀吉に託した自身の遺書だろう


 豊臣秀吉は、実は朝鮮遠征など行うつもりは全くなかった。
はじめ小西行長や石田三成と相談し、明国との貿易再開を交
渉し、やむを得ない場合、明国の風下に立ってもいい、と考
えていた。そのため、朝鮮を仲介として外交を進めるつもり
だったが、国内で諸大名を抑え、権勢をさらに発揮したい、と
の焦りから死が近づくにつれてそれが狂信的な固定観念になっ
た。そこで心にもない、大言壮語を重ね、ついに遠征に踏み切
った、・・・・。

 さらに鶴松が死んで心が荒み、秀頼が生まれると、今度は関
白位を譲った弟の秀次が邪魔になって切腹に追いこんだ。狂気
は秀次にはなく、秀吉にあった。二度目の朝鮮征伐が始まって
からは、朝鮮に無意味な戦乱を惹き起こしたという自責の念
と、また秀頼の前途の不安で家康や前田利家の手を握って「
秀頼を頼む」と涙ながらに懇願した。

 秀吉の最期の心情は「皆、おれを大バカ者と思うだろう。それ
ほど戦乱を悔いるならなぜすぐに命令を出して兵を引き上げない
のかと。それが、俺の恥さらしだ。虚栄と見栄だ。威勢をはりた
いという愚かさだ。だからこんな散々な結果になったが、生きて
いるうちはバカをやらせてくれ。俺の一生の見栄、虚栄を貫徹さ
せてくれ」

 安吾の『狂人遺書』はこのような告白を秀吉自身の遺書の形で
で書いている。タイトルに「遺書」を入れたのは、実は安吾自身
に迫る死を感じ取っていたからだろう。秀吉の愚行をわが身に投
影したのだ。この作品にも安吾の人生観が露呈している、噴出し
ていうr。人間から非合理性はなくせない、それが人間を支配し
ている。知っていながらバカを通してしまう。

 この最後のころ、「安吾風土記」を連載していた。小説とは違い、
安吾の独自の見識と判断が織り込まれている。新風土記は安吾の新
棚面を開拓と思われた、富山県、新潟県は薬と毒消しの対比である。
足摺岬で死後三日前の撮影の写真が「風土記」の巻頭にある。

 「狂人遺書」は自らを狂人とみなした安吾の秀吉の口を借りた形
での遺書である。こんな個性的な作家はもう二度と出ないだろう。


 死の三日前、足摺岬での撮影

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