角川書店の創立者、角川源義とは。魚の行商だった父の天秤棒を譲り受けての不撓不屈
現在の四大出版社、無論、日本国内の出版社だが、小学館、
講談社、集英社、それとKADAKAWA(旧角川書店)である。意外
なようだが新潮社が入っていない。
その偉大なるKADOKAWA,角川書店の創立者は角川源義氏で
ある。昔、角川文庫を読むと、最後に角川源義の創立の抱負が
述べられていた。
角川源義(かどかわ・げんよし)という人はどういう生涯を送
った人なのか、全くの無の地盤からあれほどの、いうならば出
版会の風雲児となったのか、並の人でないことは想像に難くな
いだろう。
亡くなられたのは1975年、昭和50年、10月27日、肝臓がんで
の死亡だったが、まだ58歳であった。その自宅の仏前に供えら
れたのは2mほどの長い天秤棒、富山県の田舎で父親は魚の行
商で一家を養った。縄でこすられ、労苦のしみこんだ棒だった。
応召し、復員したばかりの若者が戦後の出版界に殴り込みをか
けた。その不撓不屈を象徴する父親から譲られた行商用の天秤
棒である。
大学は国学院大学だった。同級生や当時を知る人の話では「
学生時代からものすごい努力家で、いつ寝るのかわからないほ
どでした。とにかく勉強家でした」という。
ある人の話「私が国学院予科の一年の時、角川さんは国文科
三年でした。角川さんの主宰の古代、中世文学研究会に入って
勉強したものですが、すでに角川さんの蔵書はもう学者並みに
膨大で、しかもほとんど読んでいるんです。私が下宿に遊びに
行くと、大蔵経を枕にうとうとしていて、昨夜からほとんで寝
てないというんです。旧制中学時代から古典とか俳句など、自
分の好きなことしか勉強しなかったので旧制高校には入れなか
ったそうで、それで国学院に入られました。だから予科時代に
無署名で発刊した『芭蕉俳句評釈』という受験用の本は、研究
書としても通用する内容です。学生時代から岩波書店の『文学」
、東大系の『国語と国文学」京大系の『国文学」と『国学院雑
誌』などのどんどん論文を発表し、学生時代からすでに学者と
して立派に通用する方でした」
それでなぜが学者にならなかったのか?恩師、折口信夫との
衝突があったようだという。その理由は角川さんが勉強熱心の
あまり、俳句では京大の潁原退蔵に教えを請って通ったり、中
世文学については大正大学の筑士鈴廣などの薫陶を受けた、こ
とが折口信夫に面白くなかった、ということだ。折口信夫に何
でも付き従う学生だけが教室に助手で残れたが、角川さんは、
残れなかった。だがどこの世界でも生き抜く自信があったとい
う。
国学院で知り合いで親しかった後輩の佐々木工一さんは九州
で二等兵で終戦、焦土と化した東京で角川源義さんに再会、さら
に国学院仲間の中島譲治さんと三人で角川書店のささやかな出発
が、しかし二人は角川さんと衝突、一年もせず去っていった。
本格的な出版活動は昭和21年からで堀辰雄編集の雑誌「四季」
の復刊、「堀辰雄作品集」全八巻の出版で業界の注目を浴びた。
あの角川春樹さん、思い出でこう述べていた。
「僕は子供の頃、なにか気に入らないと、所構わずウンチする
癖があった。誰も相手にしてくれないので、編集室だった自宅の
応接間にウンチを垂れ流した。ところが、親父は平気な顔で何か
書いているんです。糞攻撃も効果はなく、落胆しました。
それから小学生の頃、顕微鏡がほしいと言ったらいきなり殴ら
れました。当時で千円くらいかな、だから金には困っていみたい
です。だから僕は鉄くずを拾って歩き、自分で作りました」
昭和24年に、あの角川文庫を創設、第一回配本はドストエフス
キーの『罪と罰』、昭和27年11月に「昭和文学全集」を刊行開始
、昭和出版史上に残る全集ブームを惹き起した。第一回配本は谷
崎潤一郎の『細雪』、版権を中央公論が持っていたので、どうし
ようもなかった。そこで横光利一『旅愁』をもってきた。これは
しかし危険な賭けだった。横光人気は低下が著しかった、もし
第一回配本が全くダメだとどうしようもない。角川さんは返本の
山を予想し、眠れない夜が続いた。そこころから酒があまり飲め
ない角川源義さんは睡眠薬を飲み始めた。
ところが予想に反して第一回配本『横光利一』は超好調で輪転
機を動員してまで印刷することになった。
角川春樹さん
「新興成金とでもいうのでしょうか、鉄道の一等車に乗ってよ
く家族で温泉にいったものです。いったいこの好調ぶりはどうな
ってんだ、と子ども心に夢みたいでした」
出版界では完全に戦後派、「素人に何ができる」という冷やや
かな業界の視線を浴びながらも、その躍進ぶりは警戒心を呼び起
こした。
昭和23年、、角川からの総合雑誌「表現」の編集長として一年
間、協力した山本健吉は
「もう、すごい頑張り屋でした。戦後の新しい出版社は数しれず
ありましたが、多くは資金繰りに窮して手形を切って倒産していま
した。角川は一度も手形を利用したことはない。これは事業家とし
て立派です」
ただ角川書店も創業後、角川源義さんが亡くなるまで三度、危機
を迎えたというが、どうにか切り抜けた。
昭和27年に俳句雑誌「俳句」、同28年、1953年に「短歌」創刊、
自身も俳人であり、俳句誌「河」を創刊、俳人としても多作だった。
俳句雑誌「俳句」で地盤を切り開いたことに批判も多かった。「
角川書店の歳時記に自分の句を入れすぎる」とも批判を受けた。
ただ飯田龍太氏、俳句誌「雲母」主宰は云う
「角川さんは私の父の蛇笏のところに若い自分から来ておられま
した。俳句は学生時代から伊藤月草さんの『草人』同人でしたが、
蛇笏には必ず師の礼をとっておられました。何ごとも決してゆるが
せにしない堅固な性格と同時に、はにかみ屋でもありました。事業
家的側面が強くでたら俳人たちも反発しますから」
最晩年の角川さんの句
花あれば西行の日と思うべし
神賜う秋天高し病日記
肝臓がんで入院中の句で死を覚悟していた心境が伺われる。
出版界で2023年の売上高、KADOKAWAは堂々トップであっ
た。
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