正直、長生きの自信は全くない。今日を生きるのが芸術
長生き、短命とは云う。それは確かにあるにせよ、基本、
人の寿命など五十歩百歩というもの、ぼんやりしていたら、
百年くらいは瞬時に過ぎる。実際、祖母、母方の祖母が実質、
百歳だったが「人生なんか瞬間だった」と慨嘆した。あの「
母親」も曲がりくねって96歳、条件がもう少し良ければゆう
に百歳超えだったろうが、子供の目からみてその人生は愚劣
を極めた。しょせん人の命など長さはごくごく限られている。
・・・・・・だからどうした?であるが、私は正直、長生き
の自信は全くない。だってそれも当然で腎臓に致命的な病を
持ってしまって、なんの持病らしい持病もない人でも突発的
に割と早く亡くなる、またガンにおかされてなくなるのも、
ある意味、当たり前なのだから、私が何歳まで生きたい、な
どと云える身分ではない。15歳で腹水、末期的症状、脇腹の
皮膚がバリバリ肉割れする始末、で「あと一週間」と有り難い
宣告を受けてこちらから退院、それから別にその病気で病院や
医院にかかったことはない。治ってもないが、折り合いをつけ
て日々、生きているのみ。
エピキュロスの云うことは当たり前過ぎて、それに全てが
尽きている。「生きている限り死ぬことはなく、死ねば自分は
もういないのだから関係ない」まさにその通り、その通りだが、
、実は問題はそこから始まる。生きる時間は間違いなく、有限
ということである。残りの時間は有限ということ、堂々巡りの
当たり前なことなのだが、だからこそが限りない深淵なのであ
る。
それはさておき、私は長生きの自信はない、というのか今日
を生きることしか考えない、考えられない。明日はどうなるや
ら、50年以上もこの気持ちに変わりはない。なら「一日一生」
かと云われたら、、ニュアンスが異なる。ただ今日を生きるこ
としか考えない、考えられない、だから誠実に生きる、誠実と
は?格別、変わったことは出来ないから、つまらないことでも
「芸術」と思って大真面目に行う、ということである。才能も
ない、際立ったという意味での才能はもちろん、俗的な才能
もない、無用の用を身上とするくらいで、それでも生きる、生
きることが手段化されない日々の生活、明日を考えず今日をと
もかく生きることが全て、という純粋な生き方、ということ。
長生きする自信は毛頭ない、常識的にはそれしかないが、逆
に日々の節制は丁寧に行うことである。別段、長生きどうこう
ではなく、体調の悪化は不快の極み、だから、である。節制は
また芸術である。
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