菊村到『硫黄島』1957,甘すぎる結末で作品が腰砕けになっている。竜頭蛇尾


 菊村到、1925~1999,作家の戸川貞雄の次男、兄は「小説
吉田学校」で有名だった政治評論家の戸川猪佐武。早稲田を出
て読売新聞社会部の遊軍記者時代の作品、まだ32歳であった。

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 タイトルを見たら、硫黄島の戦闘の戦争文学か?と思いがち
だが違う。芥川賞受賞作である。やや推理的である。だが純文
学と見なされないとで芥川賞は受賞できない。基本、菊村造は
最初から純文学の道を歩みたいという考えが強かった。純文学
で行きたいという文学的な信念が強かったそうだ。当時はまだ
社会部記者、新聞記者であることを逆用して新たな純文学を切
り拓きたい、との気持ちが結果、よくこの作品に結実している
ようだが、多少半端さは否めない。

 新聞記者である「私」のところに、ある男が訪ねてくる。応
召され、硫黄島で戦い、戦闘終結後、終戦後も長く岩穴に。で、
捕虜になるまで書き続けていた日記を。硫黄島の岩穴に隠して
いたが、それをアメリカ軍の許可を得て取りに行くのだ、とい
う。それを記事にしてくれと頼むのである。そこで「私」は実
際に記事として新聞に載せた。男の名前は片桐正俊という。

 「片桐正俊は1944年2月1日、横須賀の武山海兵団に入隊し
た。三ヶ月間、館山の砲兵学校に入った。さらに三ヶ月経つと
浦賀の防備隊に回された。その年の九月硫黄島警備隊に編入さ
れ、横浜を出発した。・・・ついに翌年三月に二万数千名の日
本軍将兵はほとんど死に絶えてしまったのである。そんななか
いあって、片桐は自分の生命を守り通し、北二上水とふたりで
さらに終戦後、さら三年余も穴居生活を続けた。そしてこの期
間かれは大学ノオトに鉛筆で、せっせと日記を書きつづった。
それは米軍に投降するまで続いたが、投降するとき、その日記
を岩穴にうずめてきた。こんど米軍当局の特別のとりはからい
で、かれが単身、硫黄島にわたり、その日記を掘り出してくる
ことになった。そのことを新聞記事にしてほしい、それが彼の
気体のすべてであった・・・・」

 新聞記事にしてほしい、との片桐の要望に「私」は疑問を
つきつけた。そんな日記を取りに行くためにということで米軍
がわざわざ硫黄島に渡ることを許可するだろうか?その交渉は
複雑だったはず、本当にやったのか>硫黄島に渡ると言って米
軍が何も船舶など用意してくれはしない。日記だってあの環境
でそのまま残っているのか?など。片桐はアメリカ特派員のは
からいでそれらはクリアーできた、と云った。

 だが「私」は聞いた。最も重要な質問である。

 「なんのために日記を取りに行くのですか?」

 それに対しては「出版したいから」と答えた。

 しばらくして新聞に片桐の自殺が掲載された。

 「私」は片桐が硫黄島でともに連れ添って戦い、隠れた木谷、
戦後は板前になっている男を訪ねた。「片桐がそのような日記を
書いていたはずはない」と木谷は断言した、・・・・・ではなぜ。

 木谷は「とにかく片桐は硫黄島でふたり日本兵を殺した。とい
うのか殺したって思い込んでいる。それと今度の自殺は関係があ
るような気もするんですが」

 片桐は戦後、トラックにと飛び込むとした少年を身代わりで救
い、脚に重傷を負い、障害者となった。その時の入院時の看護婦
と結婚の約束もしたが片桐が破棄した。

 「私」は看護婦に問うた「自殺の理由も結婚を破棄も同じ理由
からだったのではないでしょうか?」

 看護婦は「あの人はまるで自分一人で償いをしようとでも考え
ていたのかもしれません。自分だけが生き延びて幸せになるのは
我慢できなかった・・・・のかも」

 だがこの小説の結末は曖昧を極めると言わざるを得ない。

 富田、同じ工場で働いていた男だが

 「片桐さんは、もういちど、はじめからやりなそうとしたんだ」

 「死んだ人のところへいって、自分を裁いてもらおうと思った
んです。死んだ人たちの声に耳をかたむけて。底から自分の人生を
新しく踏み出そうとしたんです。死ぬためでなく、生きるために」

 あらすじの紹介は端折ったが

 この結末は小説の構成を壊しかねない曖昧模糊たるものとしか思
えない。非常に甘いというほかない。ここでそれまでの描写、表現
のなかなかの見事さが腰砕けになっている。それでいいのか?であ
る。読み進むと、「いったいどんな驚くような真相が」と期待して
しまうが、読み終わると「なーんだ」という落胆は隠せそうもない
作品だ。まさしく竜頭蛇尾である。

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