坪田譲治『せみと蓮の花・昨日の恥』講談社文芸文庫
現在は講談社文芸文庫で『せみと蓮の花・昨日の恥』で出て
いるが『せみと蓮の花』は1957年、昭和32年2月に筑摩書房か
ら刊行されている。1957年に出た方はその時点で坪田譲治が
戦後に書いた小説というのか、随想的小説の全作品で九作品が
収められていた。ともかく表題作の『せみと蓮の花』が一番長
く力作めいていると思う。自伝的な随想であって小説ではない。
いろんな話が述べられている。
その中の一つ、著者の祖父、平作と云うが江戸時代末期、感
覚的に終戦間もない頃ではそれほど昔の話とは思えないという。
「祖父の平作は天保八年の生まれで、今生きていると百十五
歳であるが、天保八年は大坂で大塩がひと騒動起こした年であ
る。
この祖父は百姓であるから肥たごを担いで、年中野道を走る
ように歩いていた。私が小さい頃、聞いた話である。」
祖父から直接聞いたのである。
「おじいさんは二十二三であった。肥たごを担いで、田圃道を
は走るように歩いていた。春のことで、田圃には菜の花やレンゲ
が咲いていた。
その頃でも花見ということはあったのだろうか。そこは今は
岡山市の郊外であるが、ゲンゲ(レンゲの標準和名)畑の花の
中に、一人のサムライが寝ころんでいた。酔って寝ていたらし
い。その頃のサムライの威張っていたことは、今頃の人には想
像もつかないほどである。下士官や上等兵は二等兵に威張って、
敬礼が悪いとかでぶん殴っていたという戦前の話どころではな
い。だから、おじいさんは、そのゲンゲ畑の中に寝ころんでい
るサムライを見て、十間も前からホオカムリしていた。
道からは五間ほどそれた畑の中だし、サムライは目をつぶっ
て寝ている様子だし、普通ならここで、百姓のおじいさんは、
肥たごを下ろして、道に手をついて『お武家様、ごめんくだ
さいませ』というところだったが、おじいさんは気が急いて
いた。そこで手軽に済ませようと、ちょっと頭を下げて『ヘ
い、こんにちは、ごめん下さい』といって通り過ぎたそうだ。
ところが三間と行かないうちに後ろから声がかかった。
『こらぁ、百姓』・・・・・・」
そこから礼を失したと怒った武士が「手打ちにしてやる」な
ドと怒り狂い、追いかけてきたという。大急ぎで家に入った、
祖父は家族を皆、床の下に隠れさせ、玄関の大戸を閉めた。
父親まだ幼く子猫を抱いて床下に入った。子猫は泣き続けた。
武士は大戸に刀を差した。おじいさんは裏手からでて川をわた
り、ずぶ濡れで村の油屋にまず救いを求め、それから親戚の医
者の家に駆け込んだ。村は大騒ぎとなったが。事件は無事収ま
った。・・・・・たしかに江戸時代は戦後の戦乱が終わり、平
隠な時代、また明治以降のように戦争に明け暮れ、赤書き徴兵
されるなどということはなかったが、史上初めて厳重な身分制
度が確立され、生産に一切あずからない武士の絶対となり、手
打に怯える農民以下、町民の恐怖はいくら強調してもしきれな
いほどだった、のだから「いい時代」である道理はなかった。
さて「せみと蓮の葉」の最後の部分
「いよいよ、この随筆とも小説ともつかない作品を終わりに
いたします。この中に何人もの人物は出てきます。蟹とか蛇と
か鮒などをいれたらさらに多くなります。でも人間だけならし
れた数です。永禄七年、織田信長が美濃の稲葉山城を落とし入
れ、斎藤龍興を滅ぼしたという所から話が始まっているので、
年代的には前後、四百年に及んでいます。作中の人間も虫も
ケモノもみな亡くなっています。それこそ、私が書きたかった
ものなのです」
また「遠い昔のこと」では師事した小川未明を語り、「三重吉
断章」で鈴木三重吉を細やかに語っている。
だが全て一貫は「私は善人である」と限りなく繰り返してい
る、自負というべきなおかどうか。確かに善人ではあるとは思
うのだが。ちょっと言い過ぎの印象を受ける。
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