ラグビーの上田昭夫さんがトヨタ自動車を退職、フジテレビに入社の事情
あの慶応出、幼稚舎からの生粋の慶応ボーイの上田昭夫さん
、非常に小柄で公称160cmだが実際は150cm代では?と噂され
るほどの小柄だった。ラグビーのポジションはスクラムハーフ。
1952年10月生まれだから私より一学年上である。あの犯人が歯
科医の本山の「雅樹ちゃん誘拐殺人事件」のその雅樹ちゃんと
慶応幼稚舎で同級だった。
小学5年からラグビーを、慶応では主将も務め、1975年、東京
海上に入社。その年、豪州遠征に全日本メンバーで参加。スクラ
ムハーフは近鉄のあの今里とに二名だった、この豪州遠征の前、
「ラグビーマガジン」誌はロックで代表の小笠原にインタビュー、
若手で誰がいいと思うか、という質問に、まず一人を挙げて次
「それから慶応出の上田、彼は伸びると思いますよ」とあの小笠
原が推奨だったから、私も「上田とは」と印象に残った。
1975,全日本豪州遠征は前の年のNZ遠征と異なり、全日本は
苦汁をなめた。その年の9月にはウェールズが来日、に備えてで
あったが大きな壁につきあたった。上田昭夫さんはウェールズ戦
にも出場した。wikiの「ウェールズ戦で初キャップ」という記述
は全くの誤りであり、その前の豪州遠征で初キャップである。
だが東京海上在籍ではラグビーもままならない。そこで1978年
3月にラグビーチームを持つトヨタに移籍、ただラグビーで入った
ことになっていて正規の入社試験は受けていなかった。その1978
年にトヨタで日本一、」だが刃を5本折り、骨折4回、首から上
だけで30針、1979年1月にアキレス腱切断で一線を退いた。
1984年にトヨタ在籍のまま、慶応ラグビー部監督に就任、1985
年末の大学選手権で明治と引きわけ、その翌年、正月の日本選手
権ではあの巨漢ロック、大八木を擁するトヨタ自工を破って日本
一を獲得、さすがの上田手腕とうならせたが、
しかし上田さん、トヨタでのサラリーマン生活は順風満帆には
ほど遠かった。ラグビーとサラリーマンの両立の至難である。
上田さんは
「途中入社、しかも正規の試験無し、ラグビーで入ったという
ことでして、私自身、会社の枠からはみ出している疎外感にさい
なまれ続けました」で1986年末に上司に退職を相談していたとい
う。これは慶応監督を引き受けた影響が大きかった。
トヨタは「監督就任で仕事に差し支えたら困る。だから監督の
仕事は週末限定、それも二年限定」と言い渡し、上田さんも「こ
れはもう無理」と悟ったという。広告塔の役割など微塵も評価し
てくれなかった、という。トヨタはそれだけ仕事には厳しい、と
うことであった。
ともかくトヨタの条件に従うべく、週末は仕事をしなくて済む
ようにと、朝7時出社、昼休みも勤務。昼食は昼休み時間、残り
5分ころ、脱兎のごとく社員食堂に駆け込む。残業はほぼ毎日。
一ヶ月で150時間を超えていたという。
さすがに、長続きする道理はなく、退職の決意を上田さんは固
めていった。
トヨタを退職、フジテレビ入社、上田さんは「ラグビーの上田
ということで受け入れでなく、正式に入社試験をやっていただけ
る会社を」と条件をつけていたという。
その後、再び、慶応監督で日本一、・・・・・だが難病のアミロ
イドーシスで2015年、62歳の若さで亡くなられた。もう9年前にな
る。
上田昭夫さん、全日本初キャップは1975年、豪州遠征(その後の
ウェールズ戦ではありません!)
第四戦後の上田さん、後ろに見える日本選手はFBの田中伸典(天理
大、トヨタ)
1975年、豪州遠征でのスナップ写真
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