室生犀星『陶古の女人』1956,三という数字の織りなす小さな世界を描く短編を収録
室生犀星の1956年、昭和31年の短編集、古書である。その
表題作『陶古の女人』、古い陶器を愛する心の現実との微妙
な絡み合いを実際、枯れた筆致で物語る。三つの壺があたか
も互いに肩を組んで歌でも歌うというような、美と形、どれ
も哀れさを漂わせ、また愛おしい三人の女人のもつ深い不思
議というのか、清冽に描き出している。
表題作も含め十作品が収録されている。戦時下の作品だと
いう『奥医王』、深い想像もできないような深い山の中で、
その猛吹雪の中を越冬する兄と弟と一人の女、この三人の愛
憎の模様、心理の葛藤をこれまた枯れた筆致で、描き出して
いる。
この短編集は「三」という数字が織りなす世界をえがく、と
いう統一されてモチーフで貫かれている。「三」という数字の、
なんというべきか、平均美、そのつながりの微妙さは紛れもな
く室生犀星の詩人としての、あるいは作家としての眼が執念深
く捕らえたものと言える。
そこで『芸術家の生涯』は三人の詩人の不遇な生涯を語って
いる。『消えた瞳』では男が三人づれの女に会うところから始
まるが、決してこれも偶然ではなく、「三」という数字に賭け
た室生犀星の執念というべきものが貫徹している。
「女というもの、不仕合わせなもの、死ぬというもの」こ
の三つのものが、どの作品にも、深い影を落としている、と
は云える。
それにしても、どうして室生犀星は女に対し、ああも甘い想
いを託すのか、託せるのか、女に対して大甘の認識は私は反感
を覚えてきたものだ。晩年の『女人』など、それはそれで、読
んでなるほど、とは思えるのだが、これも人生の経験の質的な
違いというべきか、女のおよそ半端ではない意地悪の極みの部
分からすれば、室生犀星は大甘の極みではある。考えに考えた
のは間違いないが。
だが、それにしても、室生犀星は人間の宿命というべき、不
幸、不遇をいたわる、ただ一つのものは、女のやさしさ、可憐
さ、やわらかさ、たわいなさ、はかなさ、つであるという。母
親に宇宙開闢以来の悪意と下劣と凶悪が宿っていた、と思わざ
るを得ない私のような人間には犀星の「女性論」はとうてい、
納得し難いが、それはそれで、仕方がない。
1960年、夏の軽井沢を散歩する室生犀星
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