松尾芭蕉の奥の細道への自暴自棄の旅立ち、「全ては無意味で空しい」という懐い

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 上方では流行作家となった西鶴が量産の挙げ句に倒れてし
まい、以後、沈黙を余儀なくされた、その元禄時代であるが、
その元禄二年、1689年の晩春、あの松尾芭蕉は、むろん江戸
居住だが、奥羽・北陸への旅に旅立った。旅立つと云って、
全て徒歩なのだから今から思えば想像を絶するが、さりとて
く昔は歩くしかなく、それを当然と考えていたにせよ、容易
なことではない。この年に芭蕉は46歳、西鶴は48歳。今なら
男盛り、だが体力は衰える頃にしてもあの当時、である。

 その五年前、「野ざらし」の旅、その二年前「笈の小文」の
旅と、あいも変わらず旅に明け暮れる芭蕉である。俳諧の弟子
、関係者の訪問、さらに獲得のため、また新しい詩情を探求の
ため、・・・・・・と思われるが、全行程、悪路を徒歩でだか
ら、云うならば芭蕉は一所不住の乞食のような旅の境涯という
ものであり、これがどうにも染み付いてしまったようだ。

 それまでの芭蕉の度は、それでも比較的安全なルートであり、
その道中では肉親のいる故郷もあったりした。歌枕と門人の多
い、東海道筋だった・・・・・だから東海道筋を旅したことが
ない者など俳諧を語る資格なし、などと咆哮していたが、のん
きな旅だったのだろう。

 だが今度は、その行程は段違いに長く遠い、東海道筋の三倍
は超えてしまう。しかも道は悪い、環境は厳しい険路だ。それ
までのように気軽に出かけるなどできるはずはない。

 しかも当時の平均寿命を考えれば余命幾ばくもない、まず人生
五十年が相場というもので、芭蕉も格別丈夫でもなかった。そう
いえば門人の其角が翁の三上吟といっていたもので、宿に入ると
すぐ寝そべっての枕上吟、痔持ちゆえの長厠の厠上吟、さらに馬
上吟だ。

 だから「故人も多く旅に死せりるあり」という「奥の細持ち」
序文、と述べている。もしやと思ったのか、旅立つ直前の三月上
旬、深川万年橋南詰の芭蕉庵を売り払い、正真正銘、宿無し芭蕉
になった。

 後顧の憂いはなくなった、ということだろうか。その四年前に
詠んだ「貰うて食らい乞いて食い、わづかに飢寒を免れて」とい
う前詞の「めでたき人の数にも入らん老の春」という乞食の境涯
が奇しくも現実化したのだ。

 そのせいか、芭蕉は今度の旅を北国下向に当時、芭蕉庵と同じ
長屋の一間を借りて滞在中だった、真実、乞食俳人の路通を同行
させるつもりだったという。だが路通はキャンセルし、上方に旅
だった。結局、芭蕉庵近くに住んでいて、芭蕉の身の回りの世話
をしていた信州上諏訪出身の門人、河合曾良が同行とあいなった。
かくして元禄二年、1689年3月27日、千住から旅立った。

 芥川龍之介『芭蕉雑記』、続芭蕉雑記、

 が、詩人芭蕉は又一面には「世渡り」にも長じていた。・・・
彼は元禄二年にも「奥の細道」の旅に登ったときにもこういう一句
を作る「したたか者」だった、・・・・・彼は実に、日本の生んだ
三百年前の大山師だった。

 確かに芥川は見抜いていたと思う。

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