徳田虎雄氏死去、享年86歳。激烈な発展、拡大志向の異常な努力家、手段を選ばず、単にヒューマニズムにあらず
ALSで長く闘病されていた徳洲会名誉理事長の徳田虎雄先生
が亡くなられた(以後、徳田虎雄氏と)ALSと診断されたのが2002
年、それから22年の闘病。だが86歳までALSで生きられたのは
同じALSの患者さんたちの励みとなる。私の歯学部の友人、NHK
の「ラジオ深夜便」に出演したり、入学時の学籍番号が連続して
いたこともあって、いつか突然、手紙を頂いた。奥さんが書かれ
たと思う。それがきっかけでFacebookの友達にもなった。とにか
く彼は積極的、である。・・・・・彼の言葉も思い出し、徳田氏
が86歳まで生きられた、私の同級生の彼によればALSの患者が生
き延びるには絶対重要なこと、
人工呼吸器の使用である。まず介護が四六時中必要となる、と
いう問題があるがALSの患者さんは絶対に迷ってはならないという
ことだ。人工呼吸器である。周囲の献身的介護が必要となるが、
これを抜きにALSは語れない。
・・・・・・さて、還暦過ぎてのALSはさておいて、徳田氏の
身上は常人では考えられない激烈な目的に向かっての上昇志向の
努力である。徳之島という絶海の孤島というと失礼だが、なぜか
大阪大医学部病院で診察を受けた体験、それが「いつか阪大医学
部へ」そのために高校で大阪府立今宮高校への転校、だが進学で
は二流とされる今宮高校でも学年で100番以内にも容易に入れな
い。故郷の徳之島で「阪大医学部に入る」と約束した手前、それ
が果たせないとなると、もう死ぬ以外にない、ふと川に飛び込み、
死のうとおもってふらふらと、となったこともあった。
教師からは「今の成績では阪大医学部はムリだ、でも君の努力
なら二浪くらいやれば通るかもしれん」これは図星だった。
現役で阪大医学部受験、即、不出来で不合格を確信、すぐに上
京した。受験予備校である。結果は二浪で阪大医学部に合格でき
た。異常な努力である。
その後、単に病院勤務で終わるなどしかなかった、病院設立、が
目標だった。だが銀行に飛び込んでも「銀行はお金、資産のある者
には金を貸すが、ない者には絶対に貸さない」という冷厳な現実に
ぶつかる。「医学を出て現在医師で」といえば簡単に金を借りられ
ると甘く考えていいた徳田氏にはショックだった、がスポンサーが
ついた。
しかし徳田氏は常に故郷、徳之島への強烈な思いがあった。郷土
愛を通り超えたものだ。医学部を卒業し、医師の国試に合格、す
ぐ徳之島に帰った。徳之島に目的を遂げたら迎えに来る、と約束
していた女性がいた、同級生だった。彼女は徳之島で勤務してい
た、その職場に徳田氏が入って行った瞬間、彼女は飛び出してき
た。徳田氏は情熱家でもあった。
だが、ヒューマニズム、郷土愛だけでは終わらない
異常な努力家、異常な上昇、拡大志向である。ついに徳洲会は今
となれば全国に76もの病院を経営、比類ない数の病院である。単に
「生命だけは平等だ」というヒューマニズムゆえ、ではない。病院
を新たに建設、となると地元の医師会の反対運動はまた激しかった。
それをもろともせず、病院を増やした。
政治にも進出、同郷の山口組系佐々木組、佐々木道雄組長とも昵
懇になった。佐々木組長「徳田くんがもし社会党や共産党のような
こと云うならワシは何も言わん、でもワシと同じ保守だというから」
恐るべき上昇志向、拡大志向、発展志向、そのために超努力、と
にかく手段を選ばなかった。衆院議員も歴任、だがALS発病、徳洲会
には大きな打撃となったが、その拡大は止まらなかった。政治への
道はしかし閉ざされた。
とにかく大変な人生だった、阪大医学部時代は釜ヶ崎でもバイト。
その上の発展、拡大志向、・・・・・・やっと永遠の眠りである。
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