岡本太郎『日本再発見』(角川ソフィア文庫) どこまでも型破りな芸術観だが
現在は角川ソフィア文庫、またその電子書籍Kindleで読める
が最初に刊行されたのは1958年と3月くらいと古い。内容はま
さしく岡本太郎の思想である。
「芸術は芸術からは生まれない。非芸術からこそ生まれる
のだ。これは私の持論だ」
確かに「芸術とは爆発だ」という具合に、岡本太郎さんの芸
術観は型破りだ。痛快だ。それを無邪気というなら無邪気だが、
魅力的だ。
ここで太郎さんは日本の7つの地方を歩いて芸術の可能性を
孕んでいる非芸術を探して歩くのだ。だからこの本は奈良に行
き、仏像を見たり、地方を回り、極めつけな「民芸」を見たり、
という定型的な芸術探訪記ではない。
いかなる場所にも芸術の可能性はあり、それが固定観念や偏
見、その他の条件で閉塞されているものを見出して新たな意味
を与える、が太郎さんの流儀なのだ。これは普遍的な意味での
芸術の根本を問いかけるものだ。
で訪れたのは、秋田、長崎、京都、出雲、岩手、大阪、四国、
その中で太郎さんは秋田の「なまはげ」、岩手の「ししおどり」
、四国の阿波踊り、出雲の大社造りに心底、驚嘆しているのだ
が、逆に大阪、京都、長崎には失望している。芸術をそのなかに
胚胎する非芸術が名だたる文化都市に意外に乏しかった、という
ことだ。
「長崎に切り込むとき、私は快刀乱麻の意気込みだった。だが
あまりに快刀乱麻過ぎて、意図がもつれてしまい、・・・」これ
は三日間で驚異的スピードで長崎を見て歩いたときの、太郎さん
の感想である。これはどの場所でも貫くコンセプトだ。
太郎さんは常に問題意識をもっており、その土地を走り抜けな
がら、どこまでも直感的に胸にグッと来たものを掬い上げる。そ
れが独断であっても構わない。太郎さんのラジカルな感受性、ま
た意気込みは、それをそのまま受け取ることが出来る。
岩手に馬を訪ねた太郎さんは、馬こそは何より人間的であり、
芸術的に自分に問題を突きつけてくれる、と云うのだが、馬を
発見しないで鹿踊りを発見した。
縄文式文化を愛する彼の面目が躍如ではある。弥生式文化は
農耕文化、牛の文化であるのに対し、縄文文化は狩猟文化、馬
の文化である。馬は蝦夷の魂を象徴している、と太郎さんは云
う。・・・・・・こういう考えはユニークであるが、カウボー
イの義経が、みちのく産の馬に乗って西国の牛の文化に襲いか
かったという。
大阪が伝統的に持っている商品への愛着を突破口に、大阪が
生むであろう、新しいデザインを太郎さんは思いついた。思い
つきといえば、それまでの話だが、大阪の生活的風土に根ざし
た芸術の可能性を太郎さんは発見したのだろう。鴨居羊子の下
着のデザインにその萌芽を発見したというのだが、どうも釈然
としない。
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