松本清張『半生の記』1966,下積みの人々に目を向ける心情が養われた半生
松本清張さんとはどのように生まれ、育ったのか、仄聞的だ
がやや不遇で進学も出来なかった、福岡県の生まれ、「或る小
倉日記伝」なる作品があるくらいだから、やはり小倉の出身な
のだろうとは思っていたものだ。福岡で朝日新聞に勤務してい
たとか、くらいである。
で半生の記、半自叙伝であるが、内容は詳細を極めず、簡略
に近い印象を受ける。松本清張が「半生の記」でどこまで告白
するか、楽しみに読むと、その淡泊ぶりに失望しそうだ。
「あとがき」では雑誌『文芸」にこれを連載した経緯も述べら
れている。私小説は基本的に好まないと云う。終わってから「書
かなければよかった」と思ったとも。それは正直なところだろう。
この「半生の記」は概観すれば前半と後半に分かれている。前
半は、いわゆる「生い立ちの記」、後半は朝日新聞の意匠係とし
て勤務し、応召し、また戦後の生活の記録である。
清張は「少年時代は親の溺愛から、16歳ころから家計の補助に、
30歳ころからは家庭での両親の世話で身動き出来なかった、‐私に
面白い青春などなかたし、暗い濁った半生だった」と云う。
両親の性格描写は的確である。
「父(峰太郎)はどこまでも楽天家であった一方で、母(タニ)の悲
観的性格は死ぬまで治らなかった」という。夫婦喧嘩も絶えなか
った。その父は若い頃は書生をしながら法律を学び、それで身を
立てようとしたが、とにかく楽をして金を儲けようというたちで、
米相場に手を出したり、橋の上で魚を売ったり、露天商もやった。
講談を好んで新聞もよく読み、「不思議と歴史にくわしかった」
という。
母は勝ち気というのではなく、いたって狷介な性格であった。
その母が一時、料理屋を営み、多少は暮らしが楽になったころ、新
しい丸髷を結った思い出は、福岡の連帯に入る著者への親のさりげ
ない愛情だった、という。
だが進学は出来なかった清張、高等小学校を出て電気会社の給
仕、印刷屋の職人と職を転々とし、昭和11年、1936年に小倉に進
出した朝日新聞の広告部に採用された。それ以降が後半の新聞社
時代となるが、一気に調子、筆致も変わって社会的な問題に深い
洞察、批判精神が噴出する。ここからが松本文学の真髄が光るか
のようだ。下積みの人々へ目を向けるスタンス、それは「或る小
倉日記伝」に顕著だが、それは社会推理小説になっても変わるこ
とはなかった。
応召しての兵隊時代、朝鮮で衛生兵となり、それが興味深く述
べられている。終戦後は多くの人がなりふり構わず、いろんな商
売をやった時代だったが、清張は妻の郷里、佐賀から箒を仕入れ、
広島や関西方面に売り歩く行商、八人家族を守る奮闘で、作家と
なっての不眠不休の清張を想起させる。
半自伝とすれば、ちょっと取り上げ方が雑な気もする。
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