『ペンの自由を支えるために』須田禎一(評論社)オール御用メディア化の現在、一読の価値

評論社って出版社、まだあるのだろうか。英語の読本も以前
は出版していた。その評論社から1971年に刊行された本。著
者は朝日記者、北海道新聞論説委員などを経てフリーの評論家
になった方である。
タイトルのペンとは当時の風潮から新聞のペンという意味合
いだろうが、今やすべての言論メディア全体に通じるものであ
る。メディアの多様化、何よりネットの時代である。紙の新聞
の圧倒的な影響の時代は終わった、にしてもネットにも転載さ
れるから、それなりに影響力はある。新型コロナ騒動、グレタ
教など、既成メディアの権力追従のプロパガンダ広宣機関化、
洗脳の道具化は散々なものだ。この本が訴えるところは現代的
意味をますます持つ。世界での報道の自由度ランキングは日本
は非常に低い。海外の目はしっかり見ている。70位前後だろう。
コンゴ、コモロなどと同レベルである。
第一章のタイトルは「ペンを縛るもの・解き放つもの」。著
者はペンの自由の抑圧、束縛、自主規制、挙げ句、権力の道具
化を最も危惧している。時代状況は1970年頃だ、著者ははなは
だ懐疑的、あるいは悲観的だ。「日本は言論の自由が認められ
ている国です」と教育段階でも叩き込まれる。だが、・・・・・
現実は違うのである。第一章で明治からその1970年頃までの
ペンの自由を探求する。戦前は、特に戦時化した昭和初期から
は戦争完全協力、弾圧礼賛の権力の二号であり続けた。
第二章は「ペンの自由を支えた人々」横山源之助、菊竹六鼓、
風見章、桐生悠々、関口泰を主人公に第一章で捕らえたテーマ
を再度深める。と、ここまでは序論であり、
第三章で「新聞文章論」記事を書く心構え、精神を説いてい
る。枝葉末節な技術ではない。言論人は「権力の暴走、行き過
ぎ行為」に対しては、どんあ微小なことでも敏感でなければな
らないという。世界が日本の司法を「中世司法」と批判を加え
ているのに、日本のある新聞が「我が国の司法制度に中傷を加
えた」だから、言論自由度、世界70位も妥当というほかないだ
ろう。思想と見識を欠く新聞記者など木偶の坊以下ということ
だ。
著者は大杉栄と陸カツ南の文章を取り上げ、個性的で論理的
な文章を書くように勧めている。しかし必要なものは「新鮮で
凛とした体制否定の論理」であると言い切る。
それに対して当時の1970年前の新聞の社説、コラム、記事を
取り上げ、批評している。
いい文章はいい記者でないと書けない、という。ではいい記者
とは?それはローマ教皇庁やメディチ家の資金に依存しながら、
実際には民衆のためにその資金を活用したミケランジェロのよう
な人物だという。正直、日本の新聞記者にミケランジェロの器量
を要求は酷だと思うが、著者はそれを期待しているようだ。
「諸君をがんじがらめにしている多くの縛り、圧力を打ち倒せ
ば諸君が時代の先陣を切れるのだ」
メディアの現状、紙の新聞の衰退を考えれば、時代がかった文
面だが、別に新聞記者に限定しなければ至言である。
だが紙の新聞も消滅に瀕する現在、生き残りのため新聞が、既
成の新聞がますます画一的な権力のプロパガンダ普及の大衆操作、
洗脳の道具化は破滅的な記者の資質低下を表している。状況は、
現実、ひどすぎるのである。
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