日本人が英語ができないのは「天皇制」があるから、という説

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 昔、といって、それほど昔っでもないが、名前は忘れたが
静岡大学教授で野球評論も発信していた方だった。文系の教
授だった、1970年頃からかなり存在感があったように思う。
その先生が当時、ある週刊誌においてコメントしたことであ
る。「日本人が英会話ができないのは天皇制があるから、と
私は思っています」、「英語」も「英会話」も同じと考える
べきだ。要は日本人は英語ができない、「会話」はできない
が読解は自在?でもなんでもない。トータルで英語ができな
い、学校であれほど英語を学んで、なのだが。

 「天皇制」は直接の関係はないと思うが、精神的基盤、社
会的な抑圧的な雰囲気は大いに影響していると思える。

 まず最大の理由は、言語の修得のは必要にかられる場合、
周囲でその言語が使われていること、である。あの、とんで
もない学ぶとなると超難解、難物の古代ギリシャ語でさえ、
子供でも話していたのだ。古代インド語でも、現代ドイツ語
でも古色蒼然のリトワニア語でも子供でもすぐに修得してい
るのである。

 要は日本と云う国が日本語にあまりにどっぷり浸かってい
られる世界であり、日本語で生活が完遂できるから、そもそ
も日本人は「例外」を除いて、英語など外国語を使う必要も
なく、使えても意味がないに等しい、日常化会話でまず誰も
英語で会話などしていないから、言語の最重要の習得要素で
ある、「必要性」がない、同時に習得すべき環境がそもそも
環境に備わっていない、からである。そこら中で、誰もが
気楽に英語で会話していたら、自然、身につくものが、その
最重要要素がない、

 これは日本人が英語に限らず、外国語をそもそも真の意味
で習得できない、基本的要素である。だがこれは、当然のこ
とでしかない。

 日本人は英語は確かに学校教育で学ぶ、長期間だが、どこ
までも採点の対象であり、「使う」という意味がない。また
どこまでもテスト、「減点の対象」としての英語で、「正誤
問題」、また共通テストなどに「英会話」が部分的に導入さ
れても、どこまでも減点の対象の試験でしかないから、ます
ます道具性という言語の本質から離反していく。

 と常識論でしかないが、ここからは本質的テーマ、日本と
いうくにの見えざる、実は見えている精神的な抑圧性である。

 日本は世界で唯一、現在は非中国語の言語でありながら漢
字を使用している特異な国家であるが、その特異性の意識は
微塵もなく、ますます漢字の深くのめり込んでいる。漢字は
「もはや国字」だという言説が戦前から繰り返し語られてい
る。

 漢字使用それ自体ではなく、漢字への異常な社会的な執着
が「カタカナ語」追放という、文化的観点で云えば到底、異
様な「社会的圧力」は非常に強く、例えば「朝日新聞」など
も何かといえば「カタカナ語」追放をあたかも正論のように
咆哮している。「カタカナ語」を「漢語」に変えろ、という
のだ。これは戦時下で「マッチ」は「燐寸」、野球の「アウ
ト」は「駄目」というのと実は全く同じ精神構造であり、本
質的には漢語も外来要素でしかないのに、旧弊を絶対的な
文化の正当性と社会全体を通じて軛、クビキとして日本人の
心を束縛していること、それに疑問すら抱かない、という
社会的な抑圧の構造だ。

 例えば「カタカナ語追放」なのであり、社会的抑圧者に
国の文化的行政から大新聞!から隅々まで浸透する社会的な
言語上の軛、が実は突き止めれば明治の「国家神道」の絶対
性、「英語を使うなど天皇陛下に不敬」という意識が根底に
今なお存在している、というほかない。「英語で話すと天皇
陛下に申し訳ない」、・・・・・・このような心理が、社会
的抑圧が存在しないだろうか。単に日本が日本語で全て事足
りる社会、という孤立的な国家、である以上に、「英語で話
すなど天皇陛下に申しわない」?これを笑ってはならない、
明治以降の国家神道の精神への束縛である。「英語は学校の
試験だけでいい」、・・・・・その形を変えた現れが「カタ
カナ語追放」キャンペーンだと考える。

 

この記事へのコメント

纐纈 晃
2024年07月26日 23:47
日本人が英語が不得手なのは戦後GHQが日本人の英語能力が向上しないよう文法中心のカリキュラムにしたからという説もある。もちろん先生ご指摘のように日本人は仕事で英語を使う機会などほぼないというのも大きな理由でしょう