人生という詐欺師を討て!そこから人生はまた始まる

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 2024年の7月も終わり、いよいよ8月か、・・・・・。着々
と時間は過ぎていく。一気に、である。今つらつら思うのは
、あまりに傷ましかった、受難のわが人生である。親が最低限
の配慮さえしてくれていたら、あのようなひどい家庭でも、で
ある。あんな散々では済まない無意味な受難はなかった。お蔭
で人並みの青春などカケラもなく、通常のルートについに入る
ことはなかった。無論、既定路線の一本道のジンセである必要
はさらさらないが、無意味な受難はどこまでも無意味である。
小学校は皆、楽しかったのだろうか。小学二年まではまあ、なん
とかだったが、その冬休み、家業の従業員家族が水島に去ってい
き、幼少時代からの幸福な要素が最終的に消えた。それから、は
小学校からすでに楽しい場どころか、毎日、屠殺場に引かれる牛
馬のようだった。鼻歌を歌って学校に行くのと、屠殺場に引かれ
る気持ちで行くのとは天地の差だろう。

 我が子を持って子供がいかに可愛いものか、驚いた。これは家
内とよく、「子供がこれほど可愛いとは」と互いに驚きを表現し
たものだ。子供も20代半ばだが、最初の気持ち、生まれた子供へ
の気持ちは微塵も変わることはない。一度たりともイジメ、虐待
はない、当たり前である。いかに子供が幸福になれるか、それ以外
、考えたことはない。これが、当たり前の親の姿であろう。

 だがうちの親ときたら、母親は私が記憶も定かでない頃から、一
億年の敵のように殺意をもって襲いかかってきた。こんなことを書
くと被害妄想を口走っている、とおもわれるかもしれないが、何の
誇張もないどころか、どうにも表現しきれないのである。喩えの表
現で、母親は「宇宙開闢以来のすべての悪意を煮詰めたような」悪
魔どころでない人間性、「人が億兆の生を繰り返しても決して口に
しない汚い悪罵、の言葉をその人生で億兆も発した」くらいの表現
になるだろうか、その写真は全て破いて廃棄、脳病院で干からびて
死んでいる写真、一枚だけを残している。父親!の写真は一枚もな
い。
 
 それにしても一度限りの人生がこれでは、であるが現実だからどう
しようもない。だから下らない降りかかる災難をふりはらうだけに
膨大な時間を費やした。その努力も結果もまた無為である。

 それらを、今はやっと片付けたかなぁ、という所である。人はリタ
イア、退職金ももらって恵まれた年金で悠々自適、・・・・・という
年齢ではそれをさらに超えた所でまた人生が始まるのである。過ぎた
人生はすべて無意味、親など実はどこにもいなかった、いたと思った
ものは悪魔妄想でしかなかった、と思うしかない。人生はここから、
また始まる。まだ何も学んでもいないし、修得もしていない。

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