菊池寛『無名作家の日記』に語る強烈なライバル意識は芥川龍之介に向けたものなのか?


 あの文藝春秋社の創設者にして文壇の大御所などと称された
菊池寛であるが、旧制高松中学から東京高等師範(現筑波大)と
いう名門の学校に進学するが、つまらないことで退学処分、そ
こで第一高等学校文科を受験、合格、したがって現役で合格し
た学生に比べれば相当に遅れてしまった。現役で一高入学の、
推薦入学であったが、芥川は1892年生まれ、菊池寛は1988年で
あり、わずか4年ばかりの違いで、同じく同級だった恒藤恭は病
気で旧制中学を休学などのブランクもあって菊池寛と同じ年の
生まれで1888年である。ともに12月である。

 だが、せっかく入った高等師範をフイにした菊池寛は旧制一
高も、あの佐野のマント事件の罪を被ってまたしても退学、京
都帝大の文科の「選科」に入った。これは「科目履修生」のよ
うな存在だろう。で、その京都での生活の心境を述べた『無名
作家の日記』え,もう作家?と思ってしまうが、とにかく作家
を目指して京都で学ぶわけである。京都は学生として過ごすに
は非常に恵まれた環境で、殺伐たる東京の比較にはならないわ
けだが、やはり東京在住でなければ作家への道は開けにくい。
早くも東京ではなばなしく文壇に出ていくかっての同級生たち
におおいなる嫉妬を感じて羨望の念で彼らを見る、むなしい心
境を描いたものだ。

 その中で、特に才能の抜群な「山野」という友人へのむきだ
しのライバル心を述べている。

 あの一高での同級生で文壇、となると芥川龍之介か久米正雄?
だが、芥川であることは確かだ。

 「俺は、何時も山野が、自分の人格の強みを頼りとして、無
用に他人を傷つけるような、態度に出るのが不快だった。が、
それにも拘らず、彼奴の才能を認めない訳には、行かなかった。
・・・・・・ことに、山野になると、意識的に俺を圧倒しよう
と掛かって居た。彼奴は、自分の優れた素質を自分より劣った
者と比較して、そこから生じる優越感で以て、自分の自信を培
っているという、、性質の悪い男であった。そして、その比較
の対象となるのは、大抵の場合、俺だった」

 というのだが、ウソを書いているわけではないだろうが、さ
りとてあの時点で芥川がどれほどの作品、「新思潮」などに載
せた短編くらいで、漱石に褒められたというあの『鼻』とか、
巧緻な短編で結構しているが、文学としてみたら、ちょっと、
であろう。宇野浩二はためしに芥川の作品を他人から読めといわ
れ、『鼻』を読んだが、ちょっと、評価できない作品と感じたよ
うだった。

 でも、山野が谷崎潤一郎とは年齢的に思えないし、芥川となる
のだろう。だが早々と文藝春秋社を菊池寛は創設し、その雑誌
「文藝春秋」の巻頭に芥川が毎月「侏儒の言葉」を寄稿していた
わけで、その友情は麗しい、というのか。

 ともかくこの『無名作家の日記』を読んで感じるのは、菊池寛
のあまりに卑屈な精神状況であり、非常に劣等感に悩まされてい
る惨めさだ。何だか仮想敵を作り上げ、嫉妬と自虐に苦しむ様子
は哀れである。京都に唯一人やってきた理由は「彼等のすぐれた
天分から絶えず受ける不快な圧迫に、堪らなくなった為だ」と云
うのだから、被害妄想の劣等感というものだろう。菊池寛の『
藤十郎の恋』を芥川があまり評価しなかった、など言う話、芥川
によれば「最初出た『藤十郎の恋』はずいぶん違っていたから」
となって、別段、菊池寛に反感も蔑視も抱いているとは思えない。
だから創刊間もない「文藝春秋」にあれほど協力したではないか、
ということだ。芥川の自殺での葬儀の菊池寛の弔辞は有名なもの
だ。嗚咽しながらの朗読、・・・・・やはり友情が強かったと思
う。

 長崎旅行の際の左端の菊池寛と前に座る芥川

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