矢掛町の大正ロマン館、それを生んだ多賀文林堂の栄枯盛衰
私が育った頃の矢掛町商店街に文具店は西から佐伯文具店、
さらに多賀文林堂、また東町に小規模だが妹尾文具店があっ
た。妹尾文具店は昭和で云えば、昭和40年すぎに閉店、転出
されたと思う。佐伯、多賀に比べ、小規模だったが、実に、
凛々しい若主人がいて好印象だった。佐伯、多賀はメジャーで、
佐伯文具店の主人はずっと矢掛大名行列というイベントの責任
者である。で、多賀文林堂、最初から文林堂と言っていたのか
どうか、世代で云えば、いきなり云えば「大正ロマン館」、
その建物を大正末期から昭和初期にかけて建てた、という多賀
善三郎氏、その息子夫婦と思うが、雑誌もかなり同時販売して
てこれは長く続いた。私が小学三年くらいだったか、その多賀
御夫婦(善三郎の息子夫婦)の頃、多賀商店が経営破綻した、とい
うので小学校でもクラス中がその話題でもちきりだった。子供
向け雑誌を店頭に数多く並べていた多くの小学生が立ち読みし、
付録を引き抜いて(「まんが王」などの)立ち読みして、その夫婦
の奥さんが激怒して子どもたちを叱りつけていた、という場面
が今でも頭に焼き付いている。その後、そのさらに息子さん夫
婦が店を再開、子供で溢れていた時代、矢掛町も小中高生は多く
、文具店は大いに繁栄した。当時は佐伯文具店を上回っていたと
思う。そのご主人は非常に積極的、クリスマスにはサンタの格好
で練り歩く、くらい、大学は神奈川大学卒、商売熱心な方だった。
文具と雑誌の二本立てだった。長く多賀が佐伯を商売では上回っ
ていたが、それも代が変わって逆転したようだ。
余談めくが佐伯文具店の主人は兄の同級生で奥さんは私の高校
の同期である。
いま、思い出したが本来は多賀文具店、矢掛町最大の雑誌の
本屋で特に小学生たちにはは圧倒的な重要性があった店舗だった。
そのとき、1962年くらいの経営破綻後、息子さん御夫婦の経営
となり、「多賀文林堂」と名称を変更した。小学生がなぜ大騒ぎ
したかは、その圧倒的だった雑誌販売の証左であった。
またピアノ教室を1960年かな、またカワイ音楽教室を1962年
に、私は二度とも参加、挫折。
で、突如、我が家はあの街を去った。その後、少子化はこの
街を襲った。子供の姿が商店街通りでいっぱいだった、が久々に
訪れた商店街で子どもの姿はまず見ない。日曜日くらい、歩いて
いていいはずだが、小中高生を見ない。当然、文具店の経営に大
きく影響した。素晴らしい名店が連なっていた矢掛商店街は本来
の意味での商店街としては死に絶え、現在はレトロ観光のコンセ
プトで飲食店、銘菓、プラモの聖地などで面目を変えた。大正
ロマン館もそれにまさしく沿ったものと云える。
2010年、街を去って36年後、そのときの多賀文林堂、まだ営業
されているようだったが、なにせ人の気配も消えた、買い物客、子
どもの姿が消えたに等しい商店街では閑古鳥、ちょっと苦しいかな、
と思わせた。西隣の赤澤家は「矢掛屋」に大改装された。
その御夫婦のさらに子供だが娘さんがいた。だから結婚されて
その御主人の姓が多分「大正ロマン館」の責任者の方だと思う。
細い路地が商店街から多賀文林道の脇を走って小田川に通じてい
る。小田川に向かった部分が大正ロマン館、矢掛町のレトロ観光
の路線に沿った企画である。あの辺り、子供時代、散々に歩きま
わったものだ。長い時間が過ぎた。
2015年、以前のままの多賀さんの家、小田川向きの部分
、表通りから小田川沿いまで鰻の寝床のように所有されて
いた。
この記事へのコメント
佐伯文具店は、行政の必要とする物品をほとんど取り扱っていますが、公正取引委員会に訴えて岡山県が行っているインターネット入札にすれば風前の灯火です。