今日は8月6日、江戸家猫八さんが初めて広島での被曝体験を公表した高座
今日は8月6日、広島へ原爆が投下され、79年目となる。
例年、あまりに年中行事化しているが、慰霊式典が開催され
る。私は結果として長く広島市に住んだが、日常、被爆を口
にする人に出会ったことはなかった。雰囲気が静謐な街では
ないし、ちょっと、という違和感、妙な表現だが、それはあ
る。江戸家猫八さんの軍隊生活での広島での被爆体験は「
キノコ雲から出てきた~」という著書で詳述されておられる
。ただ、この事実を猫八さんが公表したのは1981年、昭和
56年、高座でのことであった。被害救済の活動中の二次被曝
により、生涯体調不良をきたしてしまった。
それは1981年11月9日、東京国立劇場での芸術祭参加の独
演会でのことだった。実にお客さんを笑わせて、その後、突然
に被爆直後の広島の地獄絵図を述べたのである。
これもその後の猫八さんの著書で全て書かれていることでは
あるが、要するに初めての公表だった。当時、広島の宇品に駐
屯していた岡田六郎兵長、その後の三代目江戸家猫八さんは8
月5日、隊内で開かれた娯楽会で得意の物まねを披露、笑わな
いことでは定評のあった鬼中将をも笑わせ、一等賞を獲得、そ
の賞品は当時としては貴重な日本酒、焼酎、大喜びでしたたか
酒をあおって翌朝はひどい二日酔い、と話し、ここまではお客
を笑いの渦に巻き込んだが、8月6日、午前8時15分の閃光の
語り部に変身した。
全身焼けただれ、肉親を探し求めてさ迷う人々の群れ、死体
の流れる太田川の河原で荼毘にふす、傷口から蛆が湧くさま、
「痛いうよ」という叫びが辺りに、「兵隊さんあ、ありがとう
、このカタキは絶対にとって下さい」と言い残して死んだ被爆
者、夜になって死体からリンが燃え上がり、よけて歩いたこと、
実に猫八さんが戦後36年目で初めて語った広島での被爆体験で
ある。会場の雰囲気は否応なく、重苦しくなったという。
「このような悲劇は、二度とあってはならないと思います」
との言葉で締めくくり、喝采を浴びた。
猫八さんのジャンル、というと落語でも講談でもない、話芸
という新しいジャンル、というべきか、その二年前の芸術祭で
は先代猫八の一代記をやって奨励賞を受けた。その線に沿って
三年間の軍隊生活、輸送船での、あわやの絶体絶命の危機も含め
た「従軍体験記」を寄席で述べ、十分な手応えがあった。実際、
二等兵物語は多彩なジャンルで語られるが、最後の被爆体験は
迂闊に気軽に話せるような内容ではない。猫八さんも悩んだこと
と思うが、語るという決意で臨んだ国立劇場だった。あまりに重
すぎる内容だからだ。だが被爆者の一人としていつかは語らねば
、という懐いがあった。還暦の年、芸術剤の高座で披露しようと
意を決して問うたのが国立劇場でお「従軍被爆体験記」であった。
二等兵物語なら多少の面白おかしく、ディフォルメも許される
だろうが被爆体験はそれは許されない。「話」と「ルポ」をどう
結びつけるか、大きなチャレンジであった。猫八さん「見たまま
を話しただけ、政治的な意図はありません」と語ったようだ。
被爆者救援活動中の二次被曝で髪が抜け始め、白血球が急増、
倒れてしまった。著書では上官が「お前はナトリウム線にやら
れてしまった、何か言い残すことはないか」と云ったという。
救援者が一転、被爆者の中に入ってしまった。復員し、東京の
病院にかかるが匙を投げられた。仕事もできない。子どものミル
ク代もない、と言うどドン底に落ちてしまった。
「死の不安におののきながらいきるのも一生なら、それを忘れ
ていきるのも一生、と不安は忘れることにしました。だから被爆
者手帳も受け取らなかった。競歩をやって体を鍛えた。とにかく
自力で這い上がった。これが被爆者の心の支えに多少でもなって
いただけたら」謙虚そのものである。
三代目江戸家猫八さん 1921~2001 80年の人生を全うされ
た。
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