中津燎子『母国考』1984,自身の体験からナショナリズムをラジカルに問う。「国際人概念」への憎悪

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 英語教育学者、といっていいのか、「なぜ英語を学ぶ」と
いう一連の著作で有名な方だ。日本人はさっぱり、英語がで
きないのに、というのか、どうせ出来ないのだから、やめて
おけ、という意味にも取れる。1925~2011,1928年から1937
年までソ連のウラジオストックで育った、というやや特異な
体験を持っている。そこからナショナリズムにも疑念を抱か
ざるを得なかった。

 パリ五輪は相も変わらぬナショナリズム、国家主義の狂宴で
あり、金メダルを取った日本人選手は、疑いもない心情で日の
丸を背負って歓喜に満ちた凱旋を行う。だが国、すなわち母国
とは何だろうか、と著者は問う。単に「日本で生まれ、日本で
育った日本人」にはあまりに自明のことのようだ。四方を海に
囲まれている国、髪の色は老いて白髪にでもならない限り、皆、
一様にカラスのような黒色、同じ日本語を話す人々、そこに生
まれ、育ったならこの国を愛するのは当然ということだろうか。
著者は英語教育否定論者でもあるから、いたって過激である。

 幼少期を戦前のウラジオで過ごし、戦時下の軍国日本で若い
娘時代を生きた著者は国はいかなる意味でも安らぎの場ではな
いのだ。スターリン粛清の嵐のソ連では、身近にいた医師が突
如、姿を消した。。また何の理由もなく、朝鮮人少年に石をぶ
つけられた苦渋で痛い体験、そこから朝鮮人に対し、日本人が
なにか悪い事をやっているのでは、という思いに囚われ、日本
という国に属することへの疑念が生じた。戦時下の日本に帰っ
たら、みな「国ために死ぬ」と口々に言う。

 つまり著者にとっては国とは投げられる石のような、いやな
ものなのだ。国際人である著者は戦後すぐ渡米、夫と二人の子
供と帰国、そこは高度成長の日本、国際化をうたいながらも、
意識は旧態然、海外で育った日本人には戦前より事態は悪化し
ていたといいたげだ。「自我形成期を海外で過ごした日本人に
取って世界で一番生きにくい国だ」と云う、非常に過激である。

 ちょっとグレているのでは、と思わせるラジカルだが、悲痛
ま云うに云えない体験のせいだろうか。「国際人」というコン
セプトに非常に反感を抱いている、のがこの著者の特徴である。

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