人に嫌われたらどうする、その対応する心的態度、蛙の面に何とか、で十分、嫌われるのは存在感の証拠

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 私という人間は非常に人から嫌われる傾向がある。例えの
話し分かりやすいのはfacebookの「友達の友達」から知らぬ
間にブロックされている、というケース。これは実は私の場
合は多いようだ。特に悲劇の広島大関連ではやや悲惨だが、
まさか、そんなことはなさそうな友達の場合でも、その私
が全く知らない友達の友達からブロックされていることに気
づくこともある。広島大学時代は悲劇の人生でもとりわけ、
戦慄であった。実際、基本的に人間関係の悪い大学で、だか
ら総合科学部長殺人事件など起きたりするが、学生間の人間
関係も険悪な場合がある。その典型例が私だったようだ。

 私は付き合いなどやってないから、基本的に私が知らない
同窓からブロックされていることに気づく。それは広島大
時代の友達、彼からリクエストがあっておおいに気を良く
したのだが、その彼の友達である。私が知っている人はほ
んの三人くらいだろう。だが、私が知らない同窓からかなり
ブロックされている。「いいね」の数とその名前の開示を
比較したら10人の「いいね」だが名前開示は数名という惨状
のようなケースが多い。私は知らない人であろう。知ってい
るケースも有るが。あれから相当の年数がたってもこの有り
様である。といって広島大とは無関係な友達でも、その友達
、私は全然知らない人から、どうやら御丁寧にブロックされ
ていることに気づく。よほど私が鼻につくようだ。

 なら、どうする。端的に言えば、勝手になんとでも思えば
いい、蛙の面にしょんべん、何をどう思われようとクソクラ
エ、ということだ。というより、それ以外の態度、つまり心
的態度なのだが、それ以外の心的な態度などとりようがない、
ということである。他人の思惑など気にしていたら、どうし
ようもない。こっちは連中を意識などしない、が連中は意識
している、というから精神的には優勢というものである。

 人から好かれるに越したこともない、が嫌われる方が実は
好ましい、と思えてならない。好かれたって何にもならない
が、嫌われたら人格が上昇するのである。なにせ、母親から
さえ、最初から最後まで潜在的に「殺意」をもたれ、殺す、
的発言、暴言は日常茶飯事、実質、最後の言葉が「殺す」と
いう名誉な私なのであるから、大学時代の私を嫌う連中など
、宙に舞うホコリのようなものだ。

 人に嫌われ続けたから、生きてこれた。本当に信頼できる
少数の人がいたらそれでいい、嫌われもしないというのは
存在感の欠落である。

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