亀井勝一郎『日本の智慧』1955、主に中世から近世の日本の文学、思想に救いを求める

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 「私がものを書き始めるようになってから今日まで、それ
ぞれの時期に深い感動を受けた書物から、特に心に残った言
葉を集めた」というコンセプトの本である。日本の古典から
二十の言葉を挙げ、その言葉にまつわる感慨と体験を述べて
いる。

 困惑したりとか、精神の危機に瀕したときに、これらの言
葉に帰り、示唆を与えられ、心を新たにするのを学んだとい
う著者は「私は、いついかなるとき、いかなる智慧を学んだ
か」という副題をつけている。第一部は宗教、第二部は芸術
をメインとするが、いずれも人生の根本の課題にふれるよう
、心がけたという。

 第一部では著者の座右の銘として取り上げているのが聖徳
太子の『維摩義疏』かえあ三つ、『維摩経』から二つ、親鸞
の『歎異抄』、『教行信証』から、また覚如の『口伝鈔』、
蓮如の『御文章』と『御一代聞書』である。判断力が衰え、
性急な判断を下そうという危険に落ちいったとき、聖徳太子
の説く無為と無相によって、固定観念と対立意識と当為癖を
克服し、自分自身を解放するのだが、著者はこれうぃ「無分
別の法」と呼ぶのだ。

 難問題に直面し、解決できず悩むとき、「煩悩即空にして
、断ずべきなしと解すれば是則ち自ら涅槃を証す」という
聖徳太子の言葉が救いをもたらした、のだ。真理を求めるの
は無心になることであり、「無求の求」が本質だと著者は学
んだ。

 罪悪感を抱き、自己陶酔に陥ろうというとき、「先罪を悔
ゆべきを説いて、而も過去に入るを説かざれ」という「維摩
経」の一節が、再生の道を開いてくれたという。同じ経典の
「一切衆生病めるを以て、是の故に我も病む」は「生きとし
生けるものへの愛」を復活させてくれるという。確実な幸福
はあり得るのか、と迷うときに親鸞の「遇い難くして今遇う
ことを得たり」という言葉が「幸福とは邂逅の喜びだ」との
結論を得たという。善人と悪人の判断では「善人なほもて往
生をとぐ、いわんや悪人をや」の一節が著者の頭に浮かぶ。

 第二部は兼好法師『徒然草」、世阿弥『花鏡』、芭蕉『
笈の小文』、西鶴『好色盛衰記』、本居宣長『あしわけおよ
ぶ』などから言葉を引いている。

 「色」を著者は広く情趣と解釈し、節度の美は芸であり、
それを感じ取るのが真の美術鑑賞という。年齢のそれぞれの
時期に応じて、ふさわしい修行について疑問を抱くとき、世
阿弥によって三つの初心を学び、芭蕉によって芸術の不易性
と、無用の用を教えられたという。様々の物語や詩歌に接し、
深く感じることをsず、文学論や分析に追われる今日「歌の
みちはぎろんを捨てて、もののあはれをいうことをしるべし」
という宣長の言葉に著者は文学に接する根本を学ぶという。

 要するに著者の基調は中世の日本文学、思想である。

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