小林秀雄、二人組強盗との深夜問答。強盗を震え上がらせた小林秀雄の鋭い眼と自然体

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 1955年、昭和30年のことだ、その年の台風23号、新潟大火
の後である。その夜、北鎌倉の臨済宗本山、円覚寺境内の梵鐘
の下で侘しい貧相な若者が二人、雨宿りしていた。これから行
おうとする悪事の計画を練っていた。山門前を横須賀線、下り
最終電車が轟音とともに通り過ぎた。

 「おい、行こうぜ」と氷雨降りしきる寒空、一人の男が相棒
に声をかけた「安よ、おれは見張り役だからな」と念を押し、
背広姿の男が立ち上がった。深夜の泥んこ道を二人は、円覚寺
から県庁時前を抜け、小袋坂を通って左折、さらに100mほど坂
を登りきった奥にあるお屋敷をターゲットにした。

 「どんな騒がれても大丈夫だ、行け」と安と呼ばれた男にこ
づかれ、見張り役だったはずの男は素早く覆面、塀を乗り越え
て玄関脇の風呂場の窓に飛びついた。ドライバーでこじ開けて
雨戸二枚を外した。懐中電灯で照らし出された広く清潔なバスル
ーム、台所、台所の出っ放しの電話線を切断し、二人は今と思し
き八畳の間に侵入、すぐ茶箪笥や袋戸を漁ったが収穫はライター
とタバコ四個のみ、「チェッ」と二人は舌打ちした、とたんに三
間ほどの襖が開き、廊下の電灯がパッと点いた。
 
 年配の女性が台所の方へ「あら、窓が」と独り言のようにいっ
て雨戸を閉め、カギをかける。

 「しまった、気づかれた」と早合点した二人は動転した。小首
をかしげて戻って来る女性の前に躍り出て

 「坊や」と呼ばれていた背広姿の男が短刀を女性の脇腹に突き
つけ、「騒ぐと殺すぞ、金を出せ」と喚いた。

 気丈な女性はやや間をおいて「お金は昨日納税してしまって家
にはありません。でも洋服類ならありますから」と静かに云った。

 「家族は何人だ」と二人は畳み掛けた。「主人と18歳の息子に
女中四人ですよ、それと大岡昇平さんというお友達が泊まってお
られます」と答えた。

 女性はとっさの機転でウソをついた。本当は息子でなく娘。大岡
昇平などお客は泊まっていなかった。だが二人にこのウソは効果は
なかった。

 「え、大岡昇平、やつなら金があるぜ、起こせ」と迫る、

 「でも昨晩飲んでいて、お客様に迷惑などかけたくありません。
お金も少しなら」と寝室に入って財布から七千円、二人は「こんな
はした金いらねえよ、主人を起こせ」と短刀を突きつけたまま寝室
に入った。

 文芸評論家、小林秀雄はその当時、53歳、翌朝締め切りの仕事で
「明日は5時に起きる」といって夜10時に寝ていた。

そこへ「おい、起きろ」と聞き慣れぬ声、しかも味気ない声に、うっ
すら目を開けた小林秀雄の目に入った短刀、だが小林秀雄は

 「おい、眠いんだよ、静かにしてくれ。え、金がほしい?なら書
斎にある、・・・・・おーい、やんなさいよ」

 と物騒な賊の横の夫人、47歳に云って再び目を閉じた。夫人は賊の
背広姿と書斎へ、机から取り出した1万3千円入りの封筒を手渡された
がなお少ないとゴネで、「おい、安、旦那を連れてこい」と大声で怒
鳴った。

 やがて「困った奴らだ」とブツブツ云いながら小林秀雄が
書斎の二人をじっと見て、「君らも座りなさい」と腰をおろ
した。

 夫人は「そうそう、その危ないものをお仕舞いなさいよ」

 夫人に促され、二人は短刀を納め、ソファーに越しをかけた。
どう小林秀雄「ボクの家は、今まで四度、泥棒に入られているが、
短刀を突きつけられたのは初めてだ。だが数多くの家から目をつ
けられたのも何かの縁だ、きみらも好んで強盗に入ろうとしたわ
けじゃないだろろう、よくよくの事情があったと思う。いくらい
るんだ?」

 「三万円」

 「そうか、ちょっと足りないが、あとは何でも持っていきなさ
い」

 安「こんな広い屋敷で金はもっとないのか」

 だが書斎いっぱいの書籍、原稿を見て「旦那は小説家ですか?」
 
 夫人が「うちは小林秀雄ですよ」

 「え、小林秀雄、文芸評論家さんかな、文藝春秋によく書いてい
てるね。評論家じゃあんまり金はないな」と云って腕時計を見つけ
すぐにポケットにしまった。

 「おい、それはスイスで買ったもんだよ」

 夫人「その時計だけはやめてください」と懇願、背広姿は素直に
夫人に返した。居間で失敬したタバコにライターで火をつけた。

 「どの代わり骨董でも壁の絵えも、なんでもどうぞ。本も差し上
げますから」

 小林秀雄が気前よく上げると云ったのは安井曾太郎の絵画、名前
は安井だが価格は高い、だが強盗は知らない。絵には興味を持たず
「ぼくは本が好きでして」と本職を忘れて調子づいた。
 
 小林「レコードでもいいよ、持っていっていいよ」

 「旦那、クラシック趣味かな」

 それから10分ほど、小林秀雄は以前、同家に入った泥棒、学生
泥棒が改心、更生して今は立派な職業についていると静かに話し
た。

 しんみり聞いていた二人は、しばらくして本職に戻り、電熱器
のコードを切って「何をするの」と夫人が穏やかにいうと、「サ
ツに知らせられたら困りから、縛るんだ」

 小林「やはり警察に知らせないわけにはいかない、だが明るくな
ってからだ。きみ等のお金は私が差し上げたものだ。奪われたんじ
ゃない。悪は今回で終わりにしなさい、真面目になってくれ」

 との小林の言葉に二人は「警察に通報は遅くに願います」とコー
ドは置いた。

 小林「とにかく眠い、でも起きたらもう眠れない、このまま書斎
で仕事そするよ」

 その言葉に二人は会釈をして「お騒がせいたしました」とバスル
ームの窓をまた開け、出ていった。机の腕時計は3時10分を示して
いた。小林秀雄は一服し、四時半過ぎに隣家の電話から通報した・

 この日、鎌倉署は緊急手配し、北鎌倉駅から上り一番で逃げよう
としていた一人を張り込んだ刑事が捕まえた。ダンヒルのライター
は動かぬ証拠、安の自供で北鎌倉では「坊や」という通称の菓子屋
のせがれ、佐久間豊も間もなく逮捕された。

 主犯の安は横須賀の海上自衛隊員だったが物品横領で免職、まだ
19歳だった。

 その後、小林邸襲わる、の報道に苦笑した弁護士がいた。今泉
現吉、64歳。以前、小林邸に侵入の泥棒の刑事弁護をつとめたこ
ともあった。今泉さんは今回も小林秀雄に判事あてに減刑嘆願書
を書いてほしい、と申し出た。小林秀雄は快諾した。よって判決
は軽かった。

 とにかく強盗に短刀を突きつけられても動じない小林秀雄、単
に「度胸がいい」ではなく、人への親近感に溢れ、なにより平常
心で接する、説教するわけではない。心を語るだけ、ありのまま、
自然体である、とは弁護士の小林英雄評。

 強盗二人

 「だけで偉い旦那さんだったよ、書斎に連れて行かれるとき、
じっと見られたら怖くて震え上がった、奥さんもまたいい人だっ
った。できれば、これを縁におつきあいできたら」それはムリだ
ったが、やはり小林秀雄夫妻、並の人間ではなかったのである。

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