山室静『晩秋記』1976,やや晩年のエッセイ、波乱万丈の人生の懐古と身辺雑記的私小説
北欧文学者として私がすぐ想起するのは矢崎源九郎と山室静
である。北欧文学プロパーというなら矢崎源九郎で、山室静は
さらにジャンルが広い。だがアイデンティティーは北欧文学で
あると思う。1921年生まれで1967年に45歳で亡くなった矢崎
源九郎に対し、山室静は1906年の生まれ、2000年の死去で94
歳と天寿を全うした。大学は矢崎源九郎が東大、山室静は東北
大学である。矢崎源九郎の息子に俳優の矢崎滋がいる。私は
講談社「少年少女世界文学全集」のクオレの翻訳の矢崎源九郎
がとにかく印象深い。ただエリート学者の道の矢崎源九郎と
異なり、山室静は波乱万丈だ。旧制中学卒業後、代用教員な
どを経て1927.岩波書店に、東洋大、日大夜間部に通うが岩波
の労働争議で退職1932年、プロレタリア文学研究会に所属、
左傾化し、1933年、逮捕勾留の憂き目、1936年、結婚、生涯
の伴侶となる。1930再就職したが1937年、会社解散で職を失
う。1939年、阿部次郎に私淑し、東北大法文学部美術家入学、
1941年、繰り上げ卒業。1946年、小田切秀雄、埴谷雄高、本
田秋五らと『近代文学』創刊、1958年に日本女子大講師、後
に教授昇進、・・・・・ただ兄は中日新聞社長、次兄は九州
大教授と優秀な家系だ。基本的に学者というより作家である。
だが学者としての道も極めた。
そこで結果として天寿全うの山室静の70歳の頃のエッセイ、
随想である。非常に多数の著作がある山室静であるが、この
随想は実に光る著作である。
内容は小説仕立てでもなかろうが、山川さんという70歳ほど
の温厚な人物が主人公である。もちろん著者である山室静さん
、その人である。北欧文学を中心とするヨーロッパ文学の研究、
翻訳を行い、小説や評論も書いている。
冒頭の「ひとりね」の章、山川さんは結婚以来30年以上、夫婦
別寝を通してきたが、なぜか今になって同じ部屋に寝るというこ
とにした、そのいきさつを述べている。
要するに、勤務先の女子大学、それは日本女子大学なのだが、
その女子学生と宴会、、帰宅したら吐血し倒れた、困った、たが
が別室の奥さんに呼びかけも容易でなかった、からだという。
そんなこんなの病気の体験談を中心に、だからもう残りの人生
は少ないと感じ、大学を退職したり、昔の仕事、のやり直しに、
また精を出すというエピソード、また「性的意識」、人生での戦
いに執着しなかった心情を綴る。
その心情とは、
「寂静主義というのか、植物人間というのか、多くは望まず、
人を羨まず、自分の置かれた場所、流れ着いた場所をで、静かに
死ぬときが来るまで、植物のように静かに呼吸して、いくらかで
も土により深く根を下ろし、枝を少しでも伸ばせたら幸い、のば
せなくても構わない、としているだけだ」
以下、同じような趣旨、心境の連作五篇が並んでいる。これを
私小説、身辺雑記的な随想的小説、とよんでいいだろう。至って
些細な身辺的な雑記で、強いて私小説化しなくていいと思える面
もあるが、
著者は
「私という、血の薄い人間の他愛ない記録」もまさしく、書く
必要があったのだ。それは随想ではなく私小説でなければならな
かった。著者の眺める「或る微妙なもの」は小説という形でしか
表現できないから、なのだ。
著者、は山川さんに思いを託し、人生の折々の時期、が影の部
分とともに蘇り、今日の生きる感情が老年の残照の輝きと合体す
る、というえばキザなようだが、そのとおりである。
いたって落ち着いたトーンの飾り気のない文章、である。自分
は弱々しくとも生涯、頑強に守り通した自分というものがある、と
いう感慨ではないだろうか。
山室静
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