パリ五輪、ナショナリズムの狂宴に夢中になれる人、なれない人

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 パリ五輪も終わった、といって私はテレビを見ないので、
ただ家族が見るテレビ音が耳に入るだけである。とにかく
海外はどうか知らないが、国内テレビ局の実況アナウンサー
の絶叫がすごい、これは戦前のベルリン五輪「前畑頑張れ」
と同趣旨の絶叫と思うが、どこまでも「日本という国の国威
発揚、国のために一丸」というコンセプトの徹底で選手に
そう言わせることも多い。フェンシングの女子選手だったか
、「どこまでもジャパン」という具合で、オリンピックに熱
狂=ナショナリズム、国家主義への熱狂と言わざるを得ない。
それも日本に限った話ではないと思う、オリンピック、スポー
ツの国際競技会は思考単位、思考ベースがどうしても全て国
家単位となってしまうのである。それも自然な感情で、それ
をとやかく云うべきではない、というのも一つの正論かもし
れないが、この極度に国家単位の思考がありうべからざる、
国際間の憎悪の応酬を生むこともまた否定できない。

 若い人は五輪のテレビ放送など無関心で55歳以上の層が夢
中になっている、との考えもあるが、また逆に若者はナショ
ナリズムに夢中になりやすい、というのも否定できないと思
う。私は子供時代に最も「日本応援」の気持ちが激しく、そ
レは徐々に薄れ、国籍、国家などの拘泥しない、純粋に競技
の魅力を堪能したい、もし見るならばだが、と考えるように
なった。

 でも気象の大袈裟報道のアナウンサーなどの絶叫、それと
オリンピックの絶叫的中継は全く軌を一にしていると感じられ
てならない。人間は熱狂できるものは要は国家、国家主義しか
ないのだろうか、という失望はいつも味あわされる。逆に国家
意識から解放されてどこまでも純粋にスポーツの応援ができた
ら、変わらぬ憧れでもある。

 必至に応援は選手それ自体、でなく背後の帰属の国家への
熱狂、忠誠?、忠誠とは古い言葉だが、コズモポリタンで考え
ることの大切さ、を私はうそいつわりなく噛み締めているので
ある。

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