宝塚歌劇よ、どこへ行く?その歴史と展望(前編)、創成期から終戦までの宝塚
一昨年だったか、一人の宝塚生徒(宝塚は歌劇団に入団して
も生徒と呼ぶ、が現在もそうなのだろうか?)先日、新宿ケン
トスに行ったが、そのほんの目と鼻の先に東宝のビル、その
場所に以前は新宿コマ劇場があったのだろうか、東京には東
京宝塚劇場が戦前からあるし、東宝の本社は東京だろう、日
劇も小林一三によるし、本当に小林一三、阪急コンツェルン
はすごい。東京圏に鉄道は持たないがその浸透ぶりはうなら
せる。だが基盤は関西の鉄道事業であることに変わりはない。
ともかく、宝塚歌劇の一人の団員が飛び降り自殺を遂げた。
阪急の事業で知名度が高いのは言わずとしれた宝塚歌劇、
昭和16年、1941年までは名称が宝塚少女歌劇だった。その
宝塚歌劇、誕生したのは大正三年、1914年4月1日、当時の
宝塚は兵庫県武庫川を挟んだ寒村だった。最近に至るまで
行政の遅れた地域だったが、あの当時となると想像もつか
ないような寂しい場所だっただろう。宝塚は小浜村と良元
村の両方にある字の地名でしかなかった。有馬温泉に向か
う宿場であり、観光地らしきものとしては明治10年、1877
年に湧いた鉱泉を中心とする数件の宿屋だけであった。
明治43年、1910年、小林一三が現在で云うところの阪急
宝塚線、鉄道を敷設し、パラダイスと名づける温泉浴場を
作り、客を募ったがさっぱり、辺鄙な寒村の温泉などに人
は寄って来ない。
ところが、その頃、大阪三越の少年音楽隊が人気を博して
いるのに目をつけた小林一三が「婦人唱歌隊」を作り、対抗
しようと考えついた。
早速、沿線の娘たちを物色し、16人をかき集め、唱歌の稽
古をやらした。12,3歳の娘がほとんどであった。だが「婦人
唱歌隊」の名称に似合うようにと、当時の女性の髪型「二◯
三高地」に結い上げて登校の子もいたし、当時は珍しかった
靴を履いている姿に寒村の村民は目を見張った。
第一回公演は、パラダイスの室内プールを改造の舞台、演
し物が桃太郎の童謡劇「どんぶらこ」、「「浮れダルマ」と
ダンス「胡蝶」の三本立て。全く他愛のないものだったが、
客の集まらないときは、劇場の爺さんがジャランジャランと
鐘を鳴らし、宿屋や村の家にふれ回って客寄せした。
ヅカファンのあこがれの緑の袴を履くようになったのも、
実は早い時期で、はじめは海老茶の袴だったが、後に明るい
ブルーに変わった。さらに派手な色にしようというので緑色
に変えた。
大正7年、1918年5月、宝塚少女歌劇養成会という名前に
改め、私立学校令による宝塚音楽歌劇学校を創設、小林一三
が校長となった。坪内士行、高木和夫、久松一声らの教授陣
だった。小林一三が池田畑雄の筆名で「鶯替」や「風流延年
舞」など結構、多くの脚本を書いた。
初期は高峰妙子、雲井浪子、雄島艶子、篠原浅茅、瀧川末
子らがスターで、名前はすべて百人一首から採っていた。こ
のやり方では名前はすぐ枯渇したのは云うまでもない。また
この年、大正7年だが東京から天津乙女が入校した。初めての
東京娘だった。
で、人気は上昇していった。づヅカもののトップを切った
のが昭和2年、1926年の「モン・パリ」だった。日本で初の
レビュー形式で宝塚としても初めてのロングラン、東京でも
昭和3年、1928年3月、歌舞伎座で大当たりを取った。宝塚レ
ビューの東京進出は即座の東京制覇だったかもしれない。
つづいて、昭和5年、1930年の「パリゼット」白井鐵造作、
が宝塚で三ヶ月のロングラン、昭和8年、1933年の「花詩集」
白井鐵造作、三ヶ月のロングランで宝塚の全盛期の始まりだっ
た。昭和9年、1934年、東宝劇場が竣工、「花詩集」をコケラ
落としに、ヅカ調の全国風靡の大きな推進力となった。
モン・パリ以後はそれまでの情緒的なものから、華麗で夢み
るもの、という白井鐵造の趣味性の舞台が多くなった。ファン
層も変遷し、いわゆる有閑マダム、また女学生に変わっていっ
た。当時は白井鐵造の全盛時代でもあり、作品は質が良く、こ
とに外国の流行歌を取り入れて、これを宝塚舞台に載せる、と
いう方法が大きな魅力となった。スターの粒も揃っていった。
葦原邦子、小夜福子、三浦時子、草笛美子、天津乙女、雲野か
よ子、轟夕起子など枚挙にいとまがないほどだった。昭和14年
に葦原邦子が退団、その最後の舞台では観客席からすすり泣き
が聞こえた。
昭和13年、1938年の秋、「訪独I伊親善芸術使節宝塚少女歌劇
団」という肩書で天津乙女ら、30名が独伊訪問、ベルリンでは
半ばお世辞の絶賛を博し、ローマでは皇后陛下の御臨席を賜っ
た。1946年にイタリアは王政を廃止している。とにかく小林一
三の大臣就任もあって戦時下での戦争協力姿勢は宝塚は徹底し、
満州や中国など戦地慰問は数多くなされた。また派手なニュー
スとなった昭和14年のアメリカ公演、小夜福子が団長だったが、
NY公演では「音楽は悪く、舞踊もレベルが低い。とくに女性が
男性役を行うのは非常に不自然だ。観客はただ着物の美しさだ
けを見ている」と手厳しい批評を浴びた。定員2400名の劇場で
200人ほどしか入らない悲惨な興行もあったという。このアメ
リカ公演は戦前、最盛期の宝塚のフィナーレとなったのはまた
否めない。日本は全てを戦争のために、という極端な戦争体制
となった。昭和19年、1944年3月にはついに宝塚大劇場、東宝
劇場は閉鎖、宝塚歌劇団に「解散命令」が出された。劇場を失っ
た団員たちは何人かで移動演劇隊を組織、軍隊や工場を慰問して
回った。その服装は紺一緒の登山帽子、上衣にズボン、リュック
にお下げ髪、かっての緑の袴姿とは異質だった。女子挺身隊に入
った団員もいた。
かくて惨憺たる敗戦となった。
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