ジョルジュ・バタイユ『蠱惑の夜』(原題:C神父、L’Abbe C)無神論の上にさらなる宗教の創造を目指す

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 作者はジョルジュ・バタイユ、1897~1962,フランスの哲学
者、思想家、作家である。ニーチェから影響が強いという。こ
の作品、邦題は『蠱惑の夜』難しい字であるが「蠱惑」は「こ
わく」と読む。原題は「C神父」 L'Abbe C

 まず、こういう具合に始まる。ある女性が双子の兄弟を愛す
る。瓜二つの双子のうち、神父である兄は精神的であり、弟は
逆に肉体的という。女性は弟といい仲になるが兄の方は女性を
拒み続ける、・・・・・・という出だしである。

 神父である兄は表向きは、取り澄ましているようだが、実は
キリスト教など信じていない、色欲もまんざらではない。その
くせ、女性の要求は拒み続けるから彼女は、ますますいらだち
をつのらせる。何とかして、表面的には神父を装って生きる兄
の仮面を叩き割って自分のものにしたい、と考え続ける。

 弟の方はいたって凡庸である。だがその弟も、はじめは女性へ
の同情から、次は尊敬する兄の本心を確かめたいという気持ちか
ら、兄を女性に近づけようとする。

 なんとも奇妙な三角関係だが、この三角遊戯を通じて徐々にわ
かっていくことは、要は神父である兄は何も信じていないという
ことを見抜いた。何も信じない上は、云うならば心は白紙の状態
で仮面も本心もない、ということだ。神父という仮面を被って、
表向き、その職務をこなせば、その限りにおいて紛れもない神父
である。もしレジスタンス運動に加わっていたら、本心はどうで
あれ、レジスタンス闘士であるのと同じだ。

 つまり仮面こそがその本体であり、いくら仮面を剥いでいこう
が、現れるのは次の仮面くらいなものだ。仮面を超えた実質など
ない。信じるに足る神があれば、いいが、そう単純にはいかない。
もう神への幻想も失われている現在、人間の生き方も宗教のあり
方も、結局、何も信じられないということに依拠したものになら
ざるを得ない。著者、バタイユ Georges Batailleの言いたいこと
はここにあると思える。バタイユのいう、「無神論的神秘主義」
なのだ。この作品は著者の経験した精神的な彷徨はよく反映して
いる。

 バタイユは1897年生まれ、1920年頃には無神論となり、「死」
と「エロス」を本質的テーマとした。ここから、さまざな分野に
わたる評論活動を展開した。フランスの有力は文芸誌「批評」を
主宰した。小説はだからこの作品だけである。

 ただ無神論、神否定論ならそこらじゅうにあるが、バタイユは
無神論で終わらずその飢えに新たな宗教の創造を試みた。この小
説もその解説書的意味がある。神父はそのあらたな上位の宗教の
殉教者とされている。著者は兄の行為を細々と記すのではなく、
軽いデッサン風の描写、哲学的論考を加えることで、その創設さ
れる上位の宗教の微妙な雰囲気を醸し出そうとする。だから物語
の展開ということ期待すべくもない。小説といっても異色な小説
だろう。

バタイユは日本でも1969年か等1973年にかけ、全15巻の著作集
が出るなど、仏文学徒の重要な研究の対象となっているようだ。
 

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