世界で一番、悲しい卒業証書の話。あり得ない話。卒業38年後にゲット、即座に焼却処分
もし世界で一番、悲しい卒業証書、というものがあるとする
なら、私の高校の卒業証書である。ちょっと他に類例がない、
別に戦争があったわけでもなく、平時でこのような例はちょっ
とあり得ないと思う。それには私の育った異常な家庭、両親の
行状と密接である。それなくして、このような事態は生じてい
ないと思われる。私もちょとこんな話は聞いたこともない。
私が高校を卒業したのは病気でかなり遅れてしまった1974年
3月だったが、高校生活は3年時に勉学の点で瓦解を始めていた。
とにかく本来の同期と入学し、最初から切磋琢磨で各科目を基礎
からみっちりやる、ことが出来ずその結果は3年時に露呈してし
まった。休学しての復帰は、恥ずかしさが先立ってさっぱり地道
に勉強する気にもなれず、好きな英語だけをかじっていた程度。
他方、家庭はひどいものだった。両親の人格がひどい、ちょっ
と表現の使用もないとしか言いようがないが、「父親」の荒唐無
稽さは連続的に典型的詐欺師にアクセス、最初は三流カ株新聞の
隅っこに小さな広告「あなたの保有の株を預かり、運用いたしま
す」株式会社・一商、という「俺達は詐欺師だ」と咆哮するよう
な広告だったが、云うならば欠落者を極めた「父」は「こっそり
大儲けしたい」というお話にならない思惑で入れ込み、結果は、
あとで調べたら3000万を超える損失、「母」の保有の株券も勝手
に持ち出し、すべて渡していた。名のしれたトップ証券会社でも
投信は「合法詐欺」と揶揄されるような代物である。まして、「
一商」だ。最初は一年ほど「運用成績」を称する書類を送ってき
ていたが、突然、ぷっつり。そこで父の悪友、悪いつき合いの、
当時の広島銀行矢掛支店副主任?の安井という男と慌てて、「一
商」の本社事務所のある名古屋に出向いたが、そこはもぬけの殻、
騙すだけ騙してドロンであった。それは私が高3の9月初旬だった
と思う。これには後日談もあって、夜逃げ後、父が詐欺で山口刑務
所で服役中のその詐欺犯人に「返金」を求める「内容証明」を送っ
た。これは服役中のものに民事の賠償を求める内容証明は、さす
が間の抜けた父親としか云いようがない。刑務所は封を切らずに
送り返してきた。
ところが詐欺師連中はネットワークがある。「詐欺にかかるよう
な人間は愚かな特性があり、大損を詐欺で出すと必ず次の儲け話に
乗ってくる」で、広島銀行の安井なる男が拾ってきた話が、大阪は
富田林の喜志家具、という名うての詐欺師だった。「木材を輸入し
てくれ、おお儲けをさしてやる。普通ならそれを聞けば誰でも即座
に悪質な詐欺師と分かって、バカバカしく相手にもしないだろう、
がここでも、夫婦揃ってぞっこん、母は「お父さんは成功した」こ
れは高3の11月頃だろう、「成功した?」と大の大人が云うのだか
ら本当?とつい思ってしまうが「あんな男が成功?信じられない」
というのが私の正直な感想だった。やっと手に入れたアパートや、
また完成もしていない新自宅、矢掛町商店街通りに面した商店の
外観だったが、表部分はまだ未完成、というのに、それらを全て
担保に入れて木材を買い入れ、喜志家具に売り渡していたが、支払
いはすべて「約束手形」何ヶ月先、数多い約束手形、何回かは払っ
たが私が予備校受験?で東京に行っている間に不渡り、全て不渡り、
父親も木材の購入先に手形を振り出していて全てこれらも不渡り、
呆れた話である。手形で払う、などという者は会社は相手にしては
いけない、わけでらう。詐欺師と手形はかっては一心同体だった。
オヤジは刑事告訴して大阪府警内にチームも設けられたそうだが、
いま一歩で逮捕に至らず、だが別の件で喜志家具の丹生(にぶ)な
る男は大阪府警に詐欺容疑で逮捕された。翌日の新聞、社会面
には「家具業界の死神、ついに逮捕される」よくそこんな男の
もとにシゲシゲと通って有頂天になれたものだ。
とまあ、自身もなんと不渡手形を連発した父親を母が「説得」し
、「一緒に出よう」と、まあ夜逃げである。アパートに住んでサラ
金が払えず、夜逃げではない、商店街通りの商店がドロンである。
しかも近く、に。私はその後ずっとして広島大歯学部に入ったが、
同級に何と言う名前だったか、母親が矢掛町横谷の井上という家
の出で福山市の歯科医院に嫁いで、その息子だが福山に夜逃げした
、と云ったら怪訝な顔をして「ちょっと近すぎるんじゃないか?」
、実際、矢掛町では子供でも福山への夜逃げを知っていたそうだ。
神戸大に入って最初、グループの集まりで「この中で親が夜逃げを
した人っている?」と言わなくてもいいのに、云ったら皆、あっけ
にとられたような顔をしていた。親の不肖さに泣かされ続けた私で
ある。
かくして、我が家の悪評は矢掛町内に、それ以外にも拡散となっ
た。で、ショックで勉強も手につかない私は一郎で大阪外大に、な
んと父親が矢掛高校の卒業証明書を受け取りに、ついでにドサクサ
で卒業証書も卒業アルバムも受け取れていなかった私に代わり、卒業
証書、アルバムを受け取りたいと「父」が言ったら、詳しい状況はわ
からないが矢掛高校事務は「ありません」、いくらなんでも卒後一年
で卒業証書を高校が紛失は普通はないが、悪評がそうさせた、のか、
アルバムは担任が「どうせ取りに来ない」と欲しいという教員に贈呈
したようだが、これも超面目を失った「父親」は何も云えず帰ったと
いうことだった。
まったく親の極端な不行跡で類例もない、高校側の卒業証書紛失、
というより廃棄だろうが、またアルバム横流し、これもいただけない
話だが、親は一切、何もやってくれない、というか街の汚辱を極めた
人間はそんなものか、情けない以前の話である。
それから私の長い道のりが始まった。大阪ら神戸、広島へ。で再び
岡山県に戻った。別に卒業証書がほしい、わけでもなかったが、親の
せいでここまで高校に軽んじられる、ちょっと例のない態度にどうし
ても決着をつけて置く必要を感じた。
弁護士を通じて岡山県県教委に高校側の一年以内の卒業証書紛失に
つき、県の責任を追求する、との訴状を送った。らショックだったの
か、即座に矢掛高校事務が当時の校長、団藤の名前入りの卒業証書を
筒とともに持参してきた。別に親のせいで私がなぜこんな屈辱を被る
のか、という怒り、無慈悲な高校への怒りでゲット、卒後、37年が過
ぎていた。初めて卒後、高校にも顔を出した。事務かどこか、入ると
教頭?がパソコンをいじっている。私よりかなり年下だろう。「あんた
が教頭かな」と、・・・・・事態の時間は前後している。結論的に云
うならあの校長が個人的恨みで廃棄させたとしか考えられない。これ
も前代未聞だろう。
何とか決着はついた。あの不愉快な校長名の卒業証書など持ってい
たくもない、どうせい意図的な廃棄だったのだろうから。杉に焼却し
てしまった。筒だけは残ったが、それも今はどこやらわからない。親
のとんでもない失態にしてもなぜ私がこんな屈辱を受けねばならない
のか、意地だけでやった行為だ。でもこんな悲しい卒業証書もないだ
ろう。聞いたこともない。
た。
この記事へのコメント
私がPTA会長をやっていた頃、校長が次期会長の候補に公立大学に合格した親を推薦しました。その方は性格が大変悪いから、私が推薦する人と同席させその場で「私が推薦する○○さん次のPTA会長をお願いします」と発言したら、快く了解していただけました。
そうした国公立優先の校長が多いようで、現在は再雇用が4年目の校長です。矢掛高校は県教委に見捨てられていると感じます。
性格が最悪の人は脳腫瘍で3年後逝去されました。