火野葦平『花と龍』1953,火野葦平、戦後の最大の力作だが時流から外れていた
火野葦平、1907~1960,満53歳の誕生日前日、自ら命を断
った。東京と若松の二重生活による経済的苦境、さらには戦争
作家というレッテルが貼り付きすぎ、戦後は力作は世に出すが、
もはや流行作家の域に達し得なかった。同じ九州出身の松本清
張の台頭にも心中、穏やかではなかったようだ。基本は経済的
な難点だったようだ。自殺の前、NHKの「朝の訪問」という番
組で八幡製鉄所を訪問していた。死因は心筋梗塞などと発表さ
れたが、睡眠薬、アドルムを多量服用の自殺だった。葬儀では
皆、いちように「火野はいいときに死んだ、これ以上生きても、
どうにもならないだろう」などということばかり話していた。
実際は自殺、相当後になって発表されたが「やっぱり」という
くらいの反応しかなかった。戦前の戦争作家のイメージ、半ば、
戦犯作家的なイメージに苛まれ続けた。戦後は戦後で力作揃い
だ。その代表作は自伝的小説のこの『花と龍』である。
この作品、火野葦平がその両親を直接のモデルとして、その
生涯を描いたものだ。火野葦平こと玉井勝則がその両親、玉井
金語郎と谷口マンの半生を小説化したものだ。
明治36年、1903年、四国は愛媛県の山奥から野望に満ちた青
年が自由の天地を目指し、村を飛び出す。玉井はだから愛媛県
の名前である。それが玉井金五郎、それとほぼ同じ頃、広島県
の山奥から勝ち気で潔癖な一人の貧農の娘が、これも広大な南
米大陸での農園経営を夢見て狭い村を飛び出す。それが谷口マ
ンである。
二人は門司に出て偶然にも同じ浜尾組の手下の沖仲仕として
働く。。マンはここでやはり沖仲仕をしている兄の林助を頼っ
て出てきたのだ。度胸と腕の良い金五郎はたちまち、仲間たち
を追い越すが、ある時、外国船の石炭荷役のとき、商売敵の大
村組と荷役の競争で張り合って、これを邪魔しようとする大村
組を奇想天外な方法で一泡吹かせ、これでさらに名を上げ、こ
の世界に名を売り出す。気丈な女性沖仲仕、谷口マンの仄かな
恋心。次いで北九州一の大親分、吉田磯吉の登場。ついで金五
郎と谷口マントの結婚。
日露戦争で日本は勝利、新興の意気に燃えた。八幡製鉄所を
持つ北九州の活気は他に比類がない。その北九州の異常な活気、
繁栄、金五郎とマンの夫婦は門司の浜尾組から下関の山下組、
さらに戸畑の永田組に移る。一徹で正義感の塊の金五郎は、こ
のヤクザ社会の酒、女とバクチに明け暮れる、ヤクザ気質に満
ちたこの仲仕の真っ只中で潔癖、果敢に生きる。周囲のさまざ
まな脅しや悪徳、暴力に敢然と挑戦し、ついに永田組の若頭か
ら自分自身の名をとった玉井組を若松に作った。金五郎27歳で
ある。マンは22歳。しかし玉井金五郎をめぐって同業者の縄張
り争いや勢力争い、血の抗争、親分子分の昔ながらの古い仁義
と人情、この間に絡む、妖艶な女刺青師の色模様など、絢爛と
また目まぐるしい展開でこの閉鎖社会から一人の近代的労働者
としての社会意識に目覚めていく金五郎はついに、若松港汽船
積小頭組合の結成を決意する。ここから一つの新しい近代意識
をもった一人の労働者としての第二の誕生となる。
どう見ても力作でケチはつけようもないが、しかし、戦前の
尾崎士郎『人生劇場』のような人気作にもなり得ない。時流から
どこか外れている、という印象である。
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