白鳥邦夫『ある海軍生徒の日記』1967,白鳥邦夫さん一番の作品、青春のリリシズムの極致

  fac_5f829b15_resize.jpg
 白鳥邦夫、1928~2002、昭和3年、長野県生まれ、1945年
8月、海軍経理学校中退、1954年、東大文学部倫理学科卒業、
秋田県での高校教員生活が長い、1986年、教員退職、「山脈
の会」所属、多くの作品がある。

 この作品、作者の戦中派、戦後派に挟まれたもう一つの世代、
語られない一つの世代について自らの多感な青春の記録を綴っ
たものでその感性は見事だと思う。

 終戦時に作者は17歳である、戦中派にはやや年齢が幼い。戦
中派ならすでに学業もほぼ終え、戦争に対しても自分なりの価
値感、評価も持ち得たかもしれないが、この微妙な世代はただ
上からの言葉を真に受け、疑いことは知らず、国のために死ぬ
ことこそ最高の名誉と思い込んで作者は海軍に向かった。わずか
な期間であっても海軍経理学校に籍をおいた以上は戦後派でもな
い。

 終戦の日、価値は転換した。海軍経理学校で、自分の立場は
ナチス的な国家社会主義であると講義していた宮田博士は終戦
となり「日本の敗北は経済的には明白だった」と云った。

 ともかく、全てが一時が万事の無責任、「国のために死ね」と
喚いた人物が戦後は「私はもともと民主主義者でして」と労働運
動の闘士になったりである。信州の実家に戻れば小学校長だった
父親は教職追放、経済的に家はどん底に突き落とされる。みな、
もう自分のことしか考えない。こうした中で自分自身が崩壊し、
何を考えるでもなく無為に過ごす日々、その中で「神」と教えら
れて絶対に疑問すら許されなかった天皇の「人間宣言」、衝撃
から旧制松本高校に転入学。

 二・一スト、高校の自由な雰囲気に、人間的な教授たち、特に
竹内良知教授から大きな思想的影響を受ける。こうして戦争少年
だった作者は17歳の少年としてアメリカの対日政策を批判し始め
る、考える少年、青年に変貌してゆく。同人誌の発行。そこで
言葉をかわし、友人となって愛を感じ始める女性の存在。もはや
現在では失われたと言っていいのかどうか、清純な青春のリリシ
ズムが戦後の激動の時代の女子師範学校の女生徒との間で展開す
る。三紀子といった。

 旧制の松本高校を卒業、その校門を出たところで待っていた
三紀子をマントに包み、雪降る中央通りをピカソやマチスを語り
ながら歩く。東大受験に失敗し、小学校の代用教員をやる。感激
て的な6年生の理科の実験、。だが再び、逆コース、反動的な動
きが顕著になる。教え子の卒業とともに退職、弱小労組、全農林
支部の書紀に就任、そこで日本の労働運動と政府の圧力、左翼政
党の内実を知った。同人誌「山脈」を発行しながら、生活は破綻、
東大受験を目指すが母親に軟禁同然にされたが、なんとか東大入
学。赤門で迎えてくれた、かっての松本高校の同級生、三年遅れ
て入った。教え子は「白鳥先生は帝大に入られた、四番の成績で
、しかも二年に一気に」と村の人達に知らせてくれた。

 戦前の欺瞞を憎みながら、また戦後の利己主義に走らず、混乱、
ドサクサの時代を自由に自主的に生き抜いた。まさに貴重な青春
の記録というほかない。

この記事へのコメント