水上勉文学とクモ(蜘蛛)、なぜクモは孤独を癒やすのか
私自身が孤独に生きていた時代、広島時代だが、やぐら炬燵
の上のテーブル、そこに一匹の小さな蜘蛛がいた。毎日、目に
した、小さな蜘蛛だ。何か孤独を癒やす、というのか、蜘蛛し
かいない、友人も長い間いなかった。蜘蛛が孤独の癒やしなん
て、刑務所の独房にありそうな話だが、意外に現実にあるもの
である。それは水上勉さんを見れば、読めばわかる。
水上勉さんは実は蜘蛛が大好きだった。それは以下のような
文章でもわかる
「汽車が徐行し始めると、私は身を乗り出すようにして外を
見る。沿線の森や木立に巣を張っている女郎蜘グモを探すため
である。枝と枝との間に大きなやつを見つけると、ドキッとし
て気が遠くなる。訪れる人もいない、辺鄙な村を好んで旅する
のも、荒れた廃屋に何十年も巣食っている古いクモの巣をみた
いからだ」
「破れたクモの巣を目の前にすると私は旅愁をかきたてられ
る」
「クモが好きなのは眺めるためではない。飼育するためなんで
す。それは女郎グモで、オスは毒を持っているので相手にしない」
「捕らえたクモを庭に放します。どんな枝を好むか、私はカン
で分かります」
「私がなぜ、クモが好きになったのか。少年時代、誰も遊んで
くれないので、山へ行ってクモと遊んでいた」
こう引用すると、なんだかウソをついている、と思う人が多い
かもしれない。だが私もそうだった。広島の小さなクモでなく、
大阪で大きな、でかい蜘蛛が押入れの段ボールに張り付いてい
た。私は蜘蛛がそこで休んでいるのかな、と独り身の侘しさ、そ
の蜘蛛を眺めるのが好きだった。だがしばらくして見たら、その
蜘蛛は死んだまま、貼り付いていた。私は虚ろな気持ちになった
ものだ。
孤独と蜘蛛、これは実は文学のテーマになり得る。水上勉さん
の直木賞か芥川賞か、『雁の寺』ちょっと寺への報復じみた内容
だが、その秘密も蜘蛛の愛好にある、と思える。
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