三角寛の「山窩(サンカ)」の博士論文その〈上〉東洋大審査
古書雑誌『彷書月刊』に三角寛の御子息のインタビュー記事
があったが、「オヤジが山窩について書いたものは全て眉唾で
すよ。それは家族である私がよく知っています」三角寛という
人物の人間性は非常に問題がある、といえる。が、の人間性の
生み出した結果は興味深い。創作だからこそ、である。山窩の
小説への利用は横溝正史の戦前の作品『真珠郎』は一つの代表
だが、三角寛は徹頭徹尾、山窩一色で山窩の独占を試みた。
さて三角寛は1962年、東洋大学から「山窩族の社会の研究」
で文学博士を授与された。
当時の取材によると三角寛はこう述べている。
「山窩には文献などまったくない。現在のセブリ生活者の実
態をみて、それを知る以外にはない。私は昭和3年、1928年か
ら30年以上、研究を続けてきた。しかし戦争で、セブリ社会は
急速に変化したため、セブリの実態は絶滅しようとしている。
前後、数百回に及ぶ実地調査の結果の一部をまとめたのです」
論文審査にあたった東洋大学の教授たちは「社会学や人類学、
言語学、医学など多くの分野で貴重な資料を提供していただき
ました」と歓喜の様相でさえあった。
いうまでもなく三角寛は朝日新聞記者時代、あの「説教強盗」
の取材で、ある刑事が「犯人は足が速いし、山窩かもしれない」
と云ったのを聞いて山窩研究を思い立ったという。
「山窩、サンカ」という名称は明治2年、1969年の島根県警
察部の報告書に出たのが最初だという。三角寛は「誤りは承知で
、活字の美的な響きからこれを使った」という。
山窩、サンカは穴居生活者ではないからサンクヮではない。山
河のほとりで生活するからサンカ、だという意見もある。サンカ
とは三つの区別、ケチのことなのである。山窩社会の最高の統治
者をアヤタチという。首相格である。次はミスカシ、これは副総
理格という。次がツキサキ。地方ごとの統治者は県知事相当がク
ズシリ一(カミ)、郡長格のクズコカミ、村長格のムレコカミの三つ
がある。
サンカ社会はこのように、いつも三つの区分を中心に構成され
ている。三つの区別、三つのカミがいつからかサンケ、あるいは
サンカと呼ばれるようになったともいう。
山窩たちは自分たちを出雲民族、つまりあとから日本に渡来し
た天孫民族といっしょに国造りに参加した先住民族の子孫と誇っ
ている。いまでも東北六県の地をエド(アイヌ)の地としてクズシリ
カミをおいていない。
★イズモヤエガキという山窩憲法がある。
サンカは暴力団、愚連隊などをヤグモノガキと呼ぶ。ヤグモと
は八雲ではなく八蜘蛛である。サンカの祖先も遠い昔は穴居生活
をしていて、天孫族に反逆を繰り返していた。それがッスアノオ
ノミコト一族によって平定され、帰順した。これをヤクモタチと
いっている。タチは断のことで、つまり悪者征伐ということだ。
ヤマタノオロチも、ツチグモも反逆者のヤクモよいうことだ。
サンカの伝承では、それまで出雲族は、ツマゴメつまり婦女暴
行を得意としていたが、スサノオノミコトによって夫婦の掟が出
来たという。一夫一婦制の確立である。
記紀にある「八雲立つ」の歌謡はただ結婚の祝いとされている
が、サンカ社会では、これを憲法制定のうたとみなしている。イ
ズモヤエガキとはサンカの憲法である。記紀歌謡とは細部で異な
る。
ヤクモタチ イズモヤヘガキ ツマゴメニ ヤヘガキツクル
コノヤヘガキヲ
という歌を、悪者を征伐して、平和を芽吹かせる憲法を打ち立て
た。婦女暴行という悪習を廃止しているという。
毎年一回、全国のクズシリカミが一同に集まって、ハタムラの
更改、サラタメを行う。全国知事会議、というところだが、ハタ
ムラのサラメは憲法改正ではなく、憲法を念じ、徹底させること
である。時流に合わせた運用を考えることの決定である。
ヤエガキ、ハタムラは第一条何々という成文法ではなく、慣習
法であり、三角寛は伝承法という。一夫一婦制のハタムラは想像
を超える厳しさである。
とこれは三角寛、山窩論文の序盤である。全体はかなり大部で、
紹介しきれない。
この記事へのコメント
そこで「サンカ」という言葉をよく聞きました。
受講生は90~100人程で、多い時は地区ごとに割り振られ幸いなことに矢掛井原方面は私一人でしたから、講座には毎年出席できました。