中村光夫『文学のありかた』1957、同時期の『私の文学論』と並ぶ中村光夫の真髄を示す著作

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 中村光夫『文学のありかた』だが1957年、昭和32年に筑摩
書房から刊行されている。時期的には『私の文学論』新潮社と
ほぼ同じのようだ。したがって両方を同時に考えなければなら
ない。『私の文学論』では文学とは何かという原理を述べたも
のであり、当時の文学の状況に当て嵌めた、というか応用した
のが『文学のありかた』である。

 『私の文学論』では小説とは、日本の近代文学で考えられて
きたような実生活そのもの再現ではなく、仮構、虚構のの物語
でさたに高い真実を書くものである、という文章があるが、中
村はすぐにちょっと素朴なこの原理を応用し、志賀直哉と谷崎
潤一郎を比較し文学評価を行った。

 『文学のあり方』では志賀直哉は作品と作者の実生活が一体
化しているような作家は、、人の肉体が美しいのは青春時代、
若い時代だけというのと同じく、文学の美しさも作者の青年期
、あるいはその名残りのある若い時期だけのものであり、作品
活動は短命に終わりがちである。その執筆しなくなったことを
「日本語は不完全で表現できにくい、フランス語を国語にすべ
き」という屁理屈をつけて正当化するしかなくなる。その逆が
谷崎潤一郎であり、その文学的長命は、彼が常に時代の風潮で
あった志賀直哉的な私小説の傾向に従属せず、いわゆる芥川と
の論争になった「筋のある小説」を書き続けたという本来の意
味での小説態度の健全さによるという。と谷崎を高く評価して
いる。「志賀直哉論」、「谷崎潤一郎論」ともに、ものにして
いる中村光夫だ。

 さらに『文学のあり形』で日本文学の状況の混乱は、思想や
筋を何か不純なものとして排斥、攻撃し、筋や思想を求める読
者との要求との乖離を指摘する。それは、もとはといえば、日
本の文学が西洋から輸入した写実主義を、事実をあるがままに
写し、描くという坪内逍遥の誤った理論により、それが文学界
全体に受容されたからだという。つまり坪内逍遥の考えを突き
詰めると、小説も事実を書くことだけが本質となってしまう。
小説らしい虚構、仮構、思想を締め出すことになってしまう。

 かくして中村は日本文学がこのような混乱、低迷から抜け出
るには坪内逍遥の写実主義を捨て、事実はかりそめのものでし
かないことに気づき、作家は現実の背後に潜む真実を幻想と排
除せず、積極的にそれを表現しなければならないという。それ
を可能にするのは作家の直感的想像力と思想であるという。そ
れは二葉亭四迷の写実論に戻るべきだとする。

 写実とは決して単に見たまま、と思えるものを書くのではな
く、現実から独立した文学の世界に現実を超えた真実を描く物
語を作りだすことだというフローベールの写実論が基本的に
この著作に存在している。二冊の本である。

 ともかく仏文出の中村光夫は西欧的な正統的リアリズムに
依拠して、日本文学の混乱と歪みを正そうとしているわけで、
このほぼ同時期の『文学のありかた』、『私の文学論』は中村
光夫の最も真髄を示す著作ということになる。

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