大江健三郎『日常生活の冒険』1964、瞑想家にして冒険家、それはこの世で成り立つだろうか

images (15).jfif
 この主人公は興味深い、人間性が広範というのか、本当に
こんな人間がいるのかどうか、もちろん小説だから自由に創
作でいいにしても魅力的である。冒険家にして瞑想家なのだ。
相互に矛盾している。冒険家だが、何時もなんだか死の恐怖
にさらされている、のである。瞑想家、思索的性格でも行動
的でも、限りある人生である。有限の時間しか与えられてい
ない。思索も行動も最初から条件付きである。死の恐怖に囚
われ、それを見据えて生きるのも、いたって人間的といえる
かもしれない。

 大江さんは死の恐怖に怯える瞑想家、さらに冒険家という
、非常に広い性格、よく言えば全人的な人間を小説の主人公
にもってきた。それ自体が、今もあの当時、1964年も変わら
ぬ現代への問題意識、批判精神と云うべきだろう。

 当時、アラブ連合の大統領、ナセル、スエズ戦争の義勇兵
として応募しようという18歳の主人公の出発、北アフリカの
地方都市のホテルの一室で理由もわからないまま自殺すると
云う25歳になった主人公の終末。それが大江健三郎さんの経
歴も盛り込んでいるようで、主人公より三歳年上の作家の目
を通して、ケレン味なく魅力的に描かれていると思う。

 性的修験者、密航者、映画俳優、犯罪者、夜警など、その
ときどきの風貌、外見をもって青年作家の前に現れる主人公
のすがたは、得難い魅力を持つと言わざるを得ない。

 でも主人公がヨーロッパ旅行に出かけるまでの前半までが
魅力的、だが後半は失速している。この主人公も結局、軟弱
な夢想家でしかなかった、というわけである。大江さんは、
この作品に大健闘はわかるが、やはりテーマは困難を極める。

 やはり自ら考え、自ら行動するという人間の存在は、やは
り夢なのだろうか。そう思わせる重さがある。

この記事へのコメント