大江健三郎『日常生活の冒険』1964、瞑想家にして冒険家、それはこの世で成り立つだろうか
この主人公は興味深い、人間性が広範というのか、本当に
こんな人間がいるのかどうか、もちろん小説だから自由に創
作でいいにしても魅力的である。冒険家にして瞑想家なのだ。
相互に矛盾している。冒険家だが、何時もなんだか死の恐怖
にさらされている、のである。瞑想家、思索的性格でも行動
的でも、限りある人生である。有限の時間しか与えられてい
ない。思索も行動も最初から条件付きである。死の恐怖に囚
われ、それを見据えて生きるのも、いたって人間的といえる
かもしれない。
大江さんは死の恐怖に怯える瞑想家、さらに冒険家という
、非常に広い性格、よく言えば全人的な人間を小説の主人公
にもってきた。それ自体が、今もあの当時、1964年も変わら
ぬ現代への問題意識、批判精神と云うべきだろう。
当時、アラブ連合の大統領、ナセル、スエズ戦争の義勇兵
として応募しようという18歳の主人公の出発、北アフリカの
地方都市のホテルの一室で理由もわからないまま自殺すると
云う25歳になった主人公の終末。それが大江健三郎さんの経
歴も盛り込んでいるようで、主人公より三歳年上の作家の目
を通して、ケレン味なく魅力的に描かれていると思う。
性的修験者、密航者、映画俳優、犯罪者、夜警など、その
ときどきの風貌、外見をもって青年作家の前に現れる主人公
のすがたは、得難い魅力を持つと言わざるを得ない。
でも主人公がヨーロッパ旅行に出かけるまでの前半までが
魅力的、だが後半は失速している。この主人公も結局、軟弱
な夢想家でしかなかった、というわけである。大江さんは、
この作品に大健闘はわかるが、やはりテーマは困難を極める。
やはり自ら考え、自ら行動するという人間の存在は、やは
り夢なのだろうか。そう思わせる重さがある。
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