1957年(昭和32年))の夏の甲子園大会、広島商業が優勝、名門復活
戦後、やっと日本も落ち着き、甲子園大会も完全復活、軌道
の乗ってきた昭和32年、1957年、夏の大会の優勝校は原爆投下
の惨劇から蘇ってきた広島市の広島商業であった。いうまでも
なく戦前からの伝統校、この当時、出場校は少なく23校だった。
山口県、広島県の西中国地区代表の広島商業、夏の大会、4度目
の優勝を果たした。正直、この年など幼すぎて記憶はないが、
その後の夏の優勝は1973年、昭和48年の佃、達川のバッテリー
による16年ぶりの優勝となる。前年の昭和31年、1956年は平安
優勝で、昭和33年は坂東英二の徳島商業を打ち砕いた柳井高校
だった。
余談だが私が歯科医として初めて収入を得たのは、生徒への
歯科検診、もちろん広島商業に行ってだが、その検診の「御礼」
であった。舟入だった。伝統を感じる学校だった。
昭和32年、広島商業は長く雌伏の時代が続いていたようだ。ま
さに名門復活だった、大会前の評価は広島商業は高くなかったが
、しぶとさ、試合巧者の持ち味を発揮した。1930年、昭和5年以
来の実に27年ぶりの優勝だった。
広島商業出場選手 あの迫田監督は、このとき控えでベンチ入り
昭和48年の優勝、センバツ準優勝だったが日本刀の刃渡り?など
独自の精神野球が話題をまいたのは事実。で、広商野球の真髄とは
だが、これと云ってじつはない、まあ脇目も振らず驀進する、とい
うことか。
閉会式後、球場を出る広商選手
決勝の相手は法政二高だった。
宿舎に戻れば地元の子供らがサインをねだる
優勝後、宿舎での夜の祝い
現在は中学の有力選手が公立の商業高校にあまり入らないから、
広島商業も難しい状況ではある。だが長い高校野球の歴史に残し
た偉大な足跡は永遠である。
翌年、昭和33年も同じ西中国代表、柳井高校が優勝した
この記事へのコメント