敬老の日に寄せて、加齢、高齢化の何が最も怖い?それは生きた人生が無意味だったとの最終宣告
敬老の日、各地に敬老会という組織があるが、その年齢は
何歳だろうか?この辺りは60歳だという、65歳以上を高齢者
と行政は一般に規定だそうで、そうしたら「高齢化率」は29
%台だが、60歳以上を高齢者と規定したら、60歳から64歳ま
でが890万人以上だから、さて36%以上になりそうだ。そんな
ことはどうでもいいが、今、壇蜜さんの感慨を読んだ。彼女は
40歳代半ばと思うが、一年の30%ほど入院生活、「元気で長生
きは難しい」と実感されているそうだ。ただ、そのような気持
ちで生きることは節制につながるから、結果は、・・・・・と
また単純に云い切れるものでもない。生き抜くことは容易なこ
とではない、のは間違いない。
ただ生き抜いたところで人の寿命は短い、たった100年が事
実上の限界、多くはそのかなり前なのだから、人生など健康、
不健康を問わず瞬時と思えばいい。その短い人生をそつなく、
十分な結果を出す、まして人に遥かにひいでた実績を残すこと
は至難である。私は加齢の怖さは、生きた人生が全く無意味、
何の才能もなかった人間だったことを最終宣告されること、そ
れが怖いのである。別に格別、加齢、高齢化を経ずとも才能な
ど何もなく、無為無能など日頃から思い知っているはずだが、
その最終宣告となるとまた話は別である。だいそれた目的など
持つはずもないが、やろうとした勉強もことごとく、つまみ食
い、愚痴と無為で人生が終わる、人生の短さを考えれば何の才
能もない人間には当然としても、私のような人間はかりに1兆
年生きても、同じこととは思える。
やれやれ、敬老もクソもない、人間ひとしく、もちろん、全
てひとしくではないが、人生はむなしく過ぎる、なまじ有意義
に生きた人は、なおさら人生にお名残惜しいだろう。人間なん
て偉いやつほど、また愚にもつかぬ権柄ずくな行いを犯すもの
である。
私は15歳からの持病で「あと一週間の命」宣告、宣告した
医師こそ、ほどなく同じ病気であの世行き、私は「入院」、特
に「長期の入院」は病気の悪化を招くのみの最大の愚行とその
とき悟った。以後、死を宣告された病気で医師にかかったこと、
病院に行ったことはない。もう「内なる体のささやき」に耳を
傾けるしか生きる道はない。持病もあるから長生きの自信など
毛頭ない、いつ死ぬやらわからない。それでも、とりあえず、
生きる、無為無能、才能なしでも生きる、凡人以下で何が悪い
という気持ちである。
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