岩波文庫の創刊、円本と岩波茂雄、芥川龍之介と三木清
岩波書店の小林勇が昭和二年の春、芥川龍之介と鵠沼の東屋
で出会った。そのとき、芥川は当時盛んとなっていた円本に何
か、反感を抱いていたという。講談社の営業が「講談倶楽部」
に芥川の作品の寄稿を依頼に行ったら、芥川はなにか汚らわし
いものがきたと思って、激怒し、鉄瓶を投げつけたという実話
さえあるのだから。芥川夫人が主人の自殺後、23年目、だから
1950,昭和25年となるが「二十三年の後に」という文章の中で
「大正の終わり頃には、例の円本が盛んで、芥川もそういう計
画に参加させられ、苦しんでいると聞いたことがあります」と
あるから、芥川の「庶民的」なものきらいはかなり徹底してい
たということか。
大正15年、1926年に改造社の山本実彦が始めた一円本が出版
界を揺り動かしたという。そこで多くの出版社が円本を出そう
と計画した。いわば出版の大量生産の方式は日本の出版事業に
大きな影響を与えたのは事実。それ以後、出版業というのか、
出版界は世間の人目を引く、派手な仕事となったのである。同
時に生き馬の目を抜くような風潮も生まれたという。
そこで、岩波書店の御大の岩波茂雄もなにか新しい企画をと
目論んでいたが、いつの他社に先を越されるという具合であっ
たが、そこで思いついたのがドイツのレクラム文庫のような形
の出版だった。円本に反発していた、高尚志向の岩波茂雄の円
本への反発の現れだった。
岩波茂雄は昭和2年のはじめに計画を立て、着手したが国内
でこのようなコンセプトの前例は「アカギ文庫」というものが
あっただけである。著者にその承諾を得るのがまず難しかった。
この叢書に古典、準古典を目されるものを入れると岩波茂雄は
決めた。ただ部数が出ればではなく、内容の高品質を重視した
のである。
ちょうどその頃、京都の三高から法政大学に来た三木清が、
その出版の参謀的存在となった。その圧倒的な学識で、また
はつらつたる才能でこの日本版レクラムの出版計画に尽力し
た。ちょっと他社でも類例を見ない参謀ぶりだったという。
特徴は星一つ100ページ、二十銭とした、のも巧みなアイデ
アであった。その第一回出版は三十点同時発売、実質的な編集
部員は小林勇、一人だった。なにしろ今の岩波を考えてはだめ
なので、当時は小規模を極めていた。社員でなく、店員という
従業員で30人くらいだった。書店と思えば多いが。岩波茂雄は
自転車に乗って著者のところへ交渉に回っていた。
岩波文庫という名称は岩波茂雄自身が命名した。昭和2年7月
10日に発売された。発刊の辞は「真理は萬人によって・・・・
・」あるいは「今や知識と美は特権階級に・・・・」、前者は
岩波茂雄による言葉であり、巧者は三木清による。円本の云う
ならば低俗さを攻撃してやまなかった岩波茂雄であったが、いざ、
岩波文庫を発売すると予想以上の歓迎を受けた。このときの感激
は後年まで岩波が「本屋になってよかった」と心底思ったという
ものだ。
ところがその月、7月24日に芥川は自殺、遺書で全集は岩波か
ら出ることになっていた。遺書で「岩波以外から本を出すな」と
いう趣旨のことが書かれていたのだが、改造社や春陽堂の円本全
集に芥川は反感を抱きながら、半冊分は出してもいいと承諾して
いた・しかし死後、改造などは芥川だけでの一冊を主張し、これ
を岩波茂雄に久米正雄が伝えると岩波は嫌がり、芥川家に不承諾
にさせろと云いはった。小林勇がその談判に向かったが、未亡人
はないて抵抗したそうだ。
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