西の小京都、世界が注目の山口市、1957年、昭和32年の光景とその歴史的背景、「山口市の歴史」
山口市はNYタイムズ紙が「2024年の訪れるべき世界の52か
所」に日本から唯一選ばれた、しかもパリに続く世界第三位
である。云うならば世界が注目の街といえる。私も実は、一人
でリタイアして「余生」を過ごすなら、誰も知らない、誰も私
を知らない、いやな記憶もない、中央から離れ、さりとて僻地
でもないこの歴史ある山口市を第一候補としている。もちろん
思うだけで実際にそうなることはないのだが。
だが「山口市」とは?となるとその歴史から現状、さほど知
られていないと思える。私だって実はよく知らない。そこで、
昭和32年に撮られた画像、当時の山口市紹介の文章を見つけた
ため転載させていただく。実に含蓄に富む紹介だが、昭和32年
時点の紹介だから、今の感覚からはやや違和感はある。だが歴
史、沿革はそのとおりである。
地元の人は山口市を西の小京都と呼ぶ。全国小京都会議という
団体があり、最初は数多くの街が「小京都」という名前に飛びつ
板がその後脱退が相次いだ。全国に「銀座」が蔓延したのと同じ
ようなセンスの産物、という「京都」にあやかることの、いやら
しさを感じ始めた街が多くなったわけである。金沢などその代表
である。だが山口市は一貫して小京都会議に属している。確かに
小ぶりだが、小京都という言い方がしっくり来る街である。
さて山口市は多くの史跡があり、三十六峰に似た山もあり、
学都でもあり、さらに市の東を流れる椹野川(ふしのがわ)の支流、
一ノ坂川が街の中を貫流していて、西の鴨川という風情だ。
山口大学、学生たちの「まかない屋」
朝夕の食事時に、学生や独身サラリーマンが出入りして賑わう
食堂、賄い屋である。これは山口独特のものだそうだ。当時、家
賃月額千円、賄い屋で三食2500円を払えば事足りる、という点が
山口市の学都たるゆえんか。
県庁左門、山口県庁の左側にひときわ古風な黒門があった。文久
三年、1863年、毛利藩の政庁を萩から山口に移したときの表門であ
る。当時は県警本部の正門だった。
郵便局、目抜き通りと云って地味な「デパート」が一軒あるばか
りだった。その中で当時、ひときわ目立ったのが、ガラス張りの近
代建築、郵便局である。佐藤栄作が郷土への贈り物、郵政大臣時代
である。この頃、山口市唯一のエレベーターがあった。空き室だら
けの静寂なビルだったという。
瑠璃光寺五重塔
市の北端にそびえる五重塔は、観光山口の象徴である。大内義弘
の菩提を弔って室町初期に建てられたもの、国宝である。
山口市について、安定した市
天文19年、1550年にはまだ山口は大内氏の都であった。周囲の
山々の麓には寺や五重塔、神社が並び立ち、その間の低地には、
椹野川(ふしのがわ)が流れている。川を下れば瀬戸内海である。山
の峠を越えれば日本海沿岸の萩に出られる。
すでに大内氏は山口市に二百年も本拠を置いて、西日本では大き
な勢力となっていた。朝鮮や明との交流もあり、その結果の豊かな
富で寺や塔を建てていた。実に落ち着いた静かな街であった。足利
氏の失政で京都が焼き払われた後となっては、山口が西の京都とし
て人々から語られた。
その山口に天文十九年、1550年に一人の外国人がやってきた。キ
リスト教の布教のため東洋に来ていたフランシスコ・ザビエルであ
あった。彼は鹿児島から布教の根拠地を求め、旅をしていた。山口
では彼は仏教の僧侶らと問答を行い、路上で武士や町人に説教して
いる。
ザビエルが本国に書き送った手紙では、山口の人々はキリスト教
を理解してくれるであろうとの希望を抱かせた、という。そして彼
を何より喜ばしたのは、領主の大内義弘が彼と快く会って、彼が布
教で山口にとどまることを許したことであった。
だがザビエルは日本の国主に会うため、さらに京都への旅を続け
た。そしてまた山口に戻ろうとしていた頃、大内義弘は将軍、足利
義満によって滅ぼされていた。ザビエルはポルトガル船でインドへ
と向かった。その後、山口は毛利氏に支配されることとなった。
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