俳句とは、要は発見された生活、人生の断面に写される心象風景

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 ある俳句同好会に参加させて頂き、もう5年半以上になる。
基本的に毎月6句作っているから、合わせて400句くらいは
作ったことになる。なにせ、全くの素人、一からであった。
無論、今でも全くの素人で全ては手探りである。「俳句論」
の類は偉い先生が書かれた、数多くの著作があるが、もちろ
ん私は読んでいない。

 ただ俳句の特徴はその異常な短さである。五七五だが、川柳
ならそれをフルに使えるが、といって異常な短さに変わりはな
いが、俳句はそこに季語だから、基本、正味、七五だけが創作
し得る容積である。これは短い、本当に短い、だからそこに季
語と道連れで注ぎ込む、表現、・・・・・その短さ故ゆえに、
表現されるのは、生活、人生の、いうならば断面である。切り
取られた断面だが、単なる平面ではないと思う。その断面に投
影される心象風景こそは人生、自分という不可解な存在の精神
の奥底の反映であると思う。生活から、人生の観察からの断面
としても、では花鳥風月の俳句は?だが花鳥風月は自然の景観
だが、それを認識するのは人間だから、やはり生活、人生の断
面の一種である。

 実際、俳句づくりは、偉い先生がまた多くのことを書かれて
いるから私の思いなど意味などないのだが、、まず季語入れなけ
れば俳句ではないから、季語を決める。今となれば周囲の自然の
激変から非現実的な季語も多いが、なお現在の生活に密着するよ
うな季語も多い。そこから、まず季語、それに続く七五は別に季
語の説明ではない、季語と無関係に近くていい。実践的には、ま
ず季語を「~や」などと提示し、それを無関係な生活、人生の断
面への思いの心象風景を投影させる、ということに私はしている
わけである。これも、誰しもいいそうなことで、「当たり前じゃ
ないか」と云われたらそれまでの話だが、季語はただ形式上と割
きればいいし、季語に密接な人生の断面の心象風景ならそれは、
まさしくベターである。

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