野間宏『サルトル論』1968,講演スタイルで13回をまとめたもの、「想像力論」と「全体小説」という方法論への自らの確信を語る
日本人のサルトル論、仏文出身が多いのは仕方がないだ
ろう。日本人はサルトルにとにかく関心を持つ。ボーヴォ
ワールにも、だから二人連れ添って日本に来たら川柳で「
実存が第二の性とやってきた」となる。・・・・・それで?
なのだが。
この本は講演のスタイルで述べられており、またそこ
に踏みとどまって次の論述の展開のためにそれまでの要約
を聴衆に示すという気の利いた構成であり、理解しやすく
というスタンスがある。13章の文章が13回の現実に行われ
た講演であり、その中での聴衆と演者、野間宏との話し合
いが、逆に野間宏と考えを前進させ、進路転換をさせるよ
うな動機を与えるように書き進められている。それがサル
トルの作中人物の「自由」がどのように「実存」するか、
に根底で結びつくかのようだ。小説家の論述、講演だから
その論理は作中人物のごとくだ。つまりサルトルの小説の
方法論の「全体小説」、それを日本で発展させたのが野間
宏であるから、「全体小説」を中心的論点として、想像力、
自由という問題に踏み込む。
簡単に要約、といって私も完全に読んでもいないのだが、
とうてい要約には適さない本だろう。読むとなればかなり
真剣に緊張感を持って読まないといけないだろう。
単純なサルトル論ではなくて、やはり小説家の野間宏だ
から、上述のように「全体小説」論である。野間宏が全体
小説を日本で発展などサルトルは知らないとは思うが、
野間としては想像力と全体小説についての自らの確信の表明
とならざるを得ない。
で、その過程でルフェーブルやポンティの考えは批判され、
マルクス主義と現実世界の混乱、何よりも実践を通じてとい
う野間のやり方の苦渋もにじみ出る、というものだ。サルト
ルの想像力論もあまりに解明されていない。当時のサルトル
の「弁証法的理性批判」なる文章も述べられていない。
かくして読者は最終章の「全体小説」を読み、そこで野間
の考えを大づかみし、それから冒頭に戻ってヘーゲルからマ
ルクスから野間宏、という展開からサルトルの想像力論を考
える、だがそれは依然、解明されない。
現在の時流から見ると若い人は読みそうにもないが、「古
書」は多数出ている。
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