獅子文六『アンデルさんの記』1963,アンデルセンに掛けた愛の物語、実話である
これは今となれば稀覯本レベルだろうか、名作だが読まれ
ない、何とも明治の香りの漂う愛の物語である。実話である。
「日本の古本屋」にはわりと廉価で結構、出品がある。代表
作「父の乳」とおなじく婦人雑誌に連載された。
明治4年、1871年の春、スコットランドの名門のマグドナル
ド家の出のダンカン・グレーなる25歳の青年技士が新橋と横浜
間の鉄道敷設、それは日本最初の鉄道敷設だったが、その工事
のために3年の契約で日本に来た。機械担当なので京橋のある
金物屋に出入りしているうちに、その主人の郷里の信州伊那在
赤穂(播州の赤穂ではない)から店の手伝いに来ていた主人の姪
の富沢タマ子に惚れ込んでしまう。そこから、当時は珍しい国
際結婚をした。
それは非常に幸福な国際結婚だったようで後年、タマ子は「
女として生まれた喜びを、あのときほど感じて感謝したことは
なかった」というほどだった。
鉄道敷設工事のために今度はダンカンは南米に赴いた。夫の
留守中に女の子が生まれる。セシールと名づけた。セシールが
生まれて一年半後に南米で良人は風土病で亡くなった。タマ子
はその時、まだ23歳だった。東京で頑張ってセシールを育てる
決意を建てていたタマ子も二年後は故郷に帰らざるを得なくな
った。乳母のイネも同行した。セシールは白人の血が入った比
類ない美少女に育ったが、田舎では白眼視された。
ところがタマ子は再婚、また継父にも馴染めずイネの東京に
帰ったので、セシールは単身上京、14歳のときであった。母を
説得した。最初は立教学院で教官のアメリカ人ミス・マッカー
ダムの家に、ついで建築家のアメリカ人ダードナーの家に寄宿、
学業に励んだ。両家とも熱心な聖公会の信者だった。自然、セ
シールも信仰の道に入った。美貌の彼女には求婚者が続々、一
人は横浜の絹物輸出業のアンデルゼン紹介の若主人、エドワー
ドだった。1898年、明治31年に結婚、エドワードは実は立派な
紳士であり、セシールを熱愛したから幸福な家庭生活だった。
月日は流れ、1927年、昭和二年、エドワードが56歳、セシー
ル53歳のとき、新邸が完成、銀婚式をかね、盛大なパーティー
が行われたが、翌年、エドワードは死去、莫大な遺産が残った。
間もなく大磯の質素な別荘に移り、そこで試練の戦争の時代を
生きた。
セシールは戦後はサンダースホームなどの手伝いをしたり、
この作品の出版された時点では89歳で健在だった。孤児院な
どの慰問を楽しみにしていたという。
獅子文六の、大磯の住民に「アンデルさん」と親しまれた一人
の女性、尊敬されていた女史絵の「生涯、素直で、人と闘わず、
いつも人に善意を持ち続けた女性」を出来るだけ、」ありのまま
に描いている。
全体をキリスト教精神、しかも清教徒的な精神がほのかな香り
で包んでいるようで、フランス人女性を妻とした獅子文六の共感
も大いに籠もっているようだ。
だが忘れ去られている作品だ。いつの日か、また復刊を願うもの
である。
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