一病息災は容易なことではないが、無病もまた厄災である。


 一病息災という言葉がある。一面の真実である。この場合の
病は慢性病を意味する。ある意味、深刻な慢性病でなければ、
一病息災などという言葉に組み入れられるものではない、と
は思う。別に厳密な定義などないが、古くは日本人の国民病
の肺結核、そして現在の国民病の腎臓病は代表的なものだろう
か。もちろん、慢性病の種類も数しれないが、現在の日本では
腎臓病の重要性は圧倒的である。だが現実、現代医学では、別
に薬は皆無だし、治療法も端的に言えばないわけである。別に
有効な、本来の意味の薬などないのは腎臓病に限った話ではな
く、肝臓病でもない。多くの内臓疾患にも有効な新薬などほぼ
出ないに等しい。内臓ではないが、数多く見られる目眩、それ
で死ぬことはないにしても、深刻な症状を呈する。無論、「
気分の良い病気」などあるはずはないが、生命への危険となる
と臓器疾患となる。

 現実に腎臓病が国民病であることは明らかだが、マスコミの
論調!は人工透析を絶対的に正当化している。この流れは利権
と根底で結びついているからどうしようもないが、その流れに
流されると戻れない橋をわたってしまう羽目になる。唯一の選
択はもう病を友とする至って忍苦の生活しか残されていないこ
とになる。また若年で罹患し、それが慢性化するケースが非常
に多いというのも特徴である。

 ともかく一病息災、ということを考えると、それは容易なこと
でないと言える。病気はそれ自体はどこまでも不都合なことだ。
ない方が良いに決まっている。だが生きる以上は、また病気も
避けられない。私は思いもよらぬ理不尽な不幸に若年時、たて
続け襲われ、それが人生を決めてしまったのは否めない。そこ
で常にあった言葉は凡庸ながら一病息災である。別に腎臓病に
限らず、慢性病は云うに云えない苦しみというものだ。この世
にいい病気などない、それゆえに生活、特に食生活には細心の
注意が常に要求される。私も長生きどころか、今日を生き抜く
自信もないというのが本音である。生きているのは運がいいか
らに過ぎない、くらいにしか思えない。だがそてゆえ、学ぶこ
とは多い。ただ健康なら何百年でも生きられそうな気分になっ
て、余計な邪悪な金銭欲がうまれたりする。いくら病がなくと
も、では人がやたら長生きできるか、といえば全く異なる。病
のなさが長寿を保証するわけではない。むしろ逆なケースが多
い。生きる以上は皆、実は断崖絶壁の限界状況である。それ
に気づかされ、生きるのは、また有意義ということだ。

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