石川淳『夷斎俚諺・夷斎筆談』(ちくま学芸文庫)再論、さすがの和漢洋の教養と反骨、抵抗精神


 「夷斎」とは石川淳の号なのだろうか、この「夷斎」と冠
したエッセイは他にもある。石川淳の文体は型破りと云われ
る。わざとらしく、全くくだけて、云うならばざっくばらん
である。二葉亭四迷は石川淳とおなじ東京外語(ロシア語)のせ
いかどうか、石川淳はえらく親しみを二葉亭に親しみの感情を
抱いているようだ。だから二葉亭の「評伝」?も書いていると
思う。そう「言文一致」の探求だ。石川淳は二葉亭よりさらに、
話をそのまま文章化したかのようだ。坂口安吾との共通点を指
摘できる。

 昭和25年から同27年にかけて、主として『文學界』、他に
『群像』、『作品』などの連載、掲載されたエッセイ風の評論
を19編集めたのが『俚諺』である。「ジイドむかしばなし」
、「乱世雑談」、「革命とは何か」、「歌仙」、「孤独と抵抗」
など。話題は、だからジイド、クローデル、フランスの対独レ
ジスタンスの殉難者、江戸の稀覯本、蜀山人の連歌を語って、
さらに革命にまで及んでいる。実際、発表当時から「天下の奇
文」と話題を撒いたという。

 当時の世相から警官隊の学生運動への暴行について「官兵が
いかに人民を迫害しているか、わたしはつい、流行に遅れてま
だ実況を検分していない。しかし見た人の話とか新聞記事、実
写フィルムを見ると、人民の犠牲者の多くは頭を割られている
ようだね。すなわち知る、官兵の棒は人民の頭を正確に狙って
いる。すくなくとも、命大事にと頭を避けているこおてゃまっ
たくないようだ」

 「もしこの国に無血革命が行われるなら、負けいくさは蓋し、
絶好のチャンスであった。人民の生活は決してあきらめるなん
ぞ、知ってはならない。われわれは絶望的にあきらめません。し
かるに、歴史条件に反して、精神の運動にさからって、人民の
血を余計に多量に要求するものは、国を滅ぼしても権力は手放
さぬという、暴力的政治だね」

 石川淳はまた永井荷風に擬せられるが、実際、反俗的スタン
ス、浅草の遊里にのめりこんだ、あの荷風ににた部分はあるの
だ。戦時中は沈黙を守った荷風に対し、淳は政治批判も辞さな
かった。「精神の運動」なのである。とにかく西洋と和漢への
幅広い教養と反俗的スタンスは淳の二代柱に違いない。

 でざっくばらんな放談がそのまま文字になったようだ。だか
ら、素直で流露感があるかと云えば、真逆でひねた性格はそれ
を許さない。でたらめを話しているのではなく、それなりに十
分、効果を狙ったような作為が感じられる。「むかしのはなし
となると、どうしても自分が出てくる。いやになっちゃうね。
書き出したものだから、仕方ねえや、書いちゃおう」だが、や
はり江戸っ子だろう。例えば関西弁だったら、岡山弁だったら、
どうなるだろうか。

 で、砕けてざっくばらんな調子でも、内容はさすがに高度な
のだ。ヨーロッパを中心とする文化的な教養が結構、惜しげな
く噴出している。といって桁外れに高級、高尚ではなく、まず
はリーズナブルだ。ただ一般的な日本人のレベルからは高級に
思えるだけだろう。文体はあけすけで、ざっくばらん。なかな
か有益な内容もある。

 「ジイドむかしばなし」、今は「ジッド」だが昔は「ジード」
か「ジイド」だった。フランスのレジスタンスに掛けて、政治問
題にもふれ、自分自身の体験談、エピソードにも及ぶ。どこまで
もベースはヨーロッパ的、フランス文学的な教養、常識であり、
そこから批評と批判をまき散らしている。別に青臭いところはな
く、まったくおとなの放言である。放言に見えてその反俗的、抵
抗的精神は根底に堅固に存在している。

 

 

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