島村直子「わたしの葛西風土記」(大阪書籍中学国語教科書・昭和36年~昭和40年)について

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 中学国語の教科書として不朽の評価を得ている大阪書教科書
だが、その昭和36年版、1961年版から昭和40年版まで「生徒
作品」として中学二年・国語に掲載されていたのが島村直子さ
んによる「葛西風土記」である。葛西とは現在はめざましい発
展、変貌を遂げている葛西地区の昭和30年代前半の、およそ、
うらぶれた姿を中学生が書いた文章だが、・・・・中学生の「
作文」と思えば驚異的なレベルである。この教科書収録は昭和
41年、1966年には終了し、「弟」の島村典孝の中学二年時の作
文!「小倉城物語」が同じ中学一年・国語教科書に収録された。
これは中学二年の「作文」とは思えない筆致、内容で「読売つ
づり方コンクール」に入選したが、どう見てもそれ以上の作品
だ。島村直子、典孝の姉弟には著書も多い、その年令を考えれ
ば、たとえば典孝の著作は多くが高校生時代、あるいはそれ以
下の年齢で故児玉隆也のあのルポルタージュに匹敵の内容で驚
異的というほかはない。だが、あの若くして天才的ルポライタ
ー、作家的素養だった島村典孝さん、その後の活動がない。さ
らに疑問は画家、島村洋二郎の娘の「島村直子」1950年、葛飾
区生まれ、はこの「島村直子」と同一人物なのだろうか。島村
典孝さんは1948年、小倉生れ、下町育ちである。ネットにも明
確な情報がない。ただ、記憶には道徳?の本に島村典孝の文章
、挿し絵で親に背負われた小さな男の子が、裕福ではない家庭
のように感じたのだが。


   「わたしの葛西風土記」  生徒作品 島村直子

 一。大東京の片すみ

 テレスコトン、テレスコトン、・・・・・太古を先頭にやくざ
や町娘のかっっこうをして、お面のようにまっ白に顔を塗りつぶ
した芝居の町回りの後ろから、子どもたちワイワイおもしろそう
についていく。太鼓の音の陽気さに比べ、役者たちのすり切れた
草履と着物のよごれがわびしい。やがて四つかどに来ると、一行
は立ち止まって口上を述べ始める。

 「ええ、当地初めてお目見え大友新之助大一座、本日より五日
間、東船堀写真屋裏広場にて公演つかまつります。・・・・・」

 そしてまた太鼓を鳴らして歩いていく。相変わらずぞろぞろと
そのあとをくっついていく子どもたち。。しかしバスの通ってい
る一筋の表通りを歩いてしまうと、もう町回りの一行は太鼓を
たたくのをやめて横道に入る。そこはもう一面の青いはす田と水
田だ。その青田の向こうには急ごしらえの小さな芝居小屋が見え、
薄汚れた数本ののぼりが風にはためいている。青一色のはすのあ
ぜ道を行くはでな役者の着物の色と、遠くに見えるいなかの芝居
のぼり、まるでいつか映画で見た記憶の中にある農村風景である。

 ・・・・・
 国鉄総武線の錦糸町、または平井駅から三角行きのバスに乗っ
て約三十分、荒川放水路にかかっている小松川橋を渡り、今井、
上野間のトロリーバスの停留所のある東小松川三丁目を経て三
四分行くと、バスの両側に青々とした一望のはす田と水田が広が
る。そこはもう葛西、詳しくいえば、東京都江戸川区葛西地区な
のである。東京都の東南端に位置して、南は東京湾に面し、東は
江戸川を境にして千葉県浦安に、西は荒川放水路を隔てて江東区
砂町に対している一帯、これが葛西とよばれる地域なのである。

 三・葛西の浅草のり

 よその土地の人が、春の夕暮れ、葛西橋や浦安橋の上から川面
を見下ろすと、柔らかな春の夕日を背中に受けてぽんぽんと海苔
採集の和船が、べか船と竹のひびをいっぱい積んで、海から帰っ
てくるのをみて、その数の多さに驚くだろう、・・・・・

 それはそれとして、冬の日、葛西のあちこちによしずが立ち並
んで、目ぐしで止められた海苔が干してあるのを見ると、地方か
ら上京してきた人が、東京名産のみやげとして勝っていく「浅草
海苔」が、実は浅草からはほど遠い、ここが本場で、浅草ならぬ
葛西で造られているのがおかしくなって、にやにや笑いだしたく
なるのである。

 四・変わる葛西 結び

 昨年あたりから、葛西の田んぼのあちこちに、トラックが土
を運んできて投げ入れ、田んぼがつぎつぎと埋め立てられて、
小さな工場や家の数が急に増えだしたのが目につく。この地区
は土地が低く、地上げするにはたいへんなお金がかかるので、
家を建てる人が少なく、それが葛西の発展しない一つの原因で
あったが、もう荒川放水路の対岸まで人家がうずまり尽くした
現在、ぜいたくなことも言ってはおられず、この広い田んぼに
目がつけられたのだろう。

 葛西は変わりつつある。新川にかかった新宇喜田橋の完成と
ともに、新小岩から小島までの直線道路には、トロリーバスを
引き込む計画だというし、本年完成した海岸の護岸堤防の上を
ドライブウェイとして、観光の名所にしようという計画もある
そうだ。さらに小の海岸近くに都営住宅を造って、温泉を掘る
計画もあると新聞に出た。

 ・・・・・・

 希望するしないにかかわらず、近い将来、葛西は大きく変わる
だろう。そしてこの土地にも、ようやく都心の文化と思想が大き
な勢いで流れ込んでくるだろう。それに立ち向かったとき、この
古い葛西は、いったいどんな変化と動きを見せるだろうyか。し
かしわたしは、自分の住んでいるこの土地を、今よりもっと住み
よい土地にするために、自分として精いっぱいの努力をすること
だけは、いつも忘れずにいなければならないと思っている。住ん
でいる土地へのほんとうの愛情は、この努力と結びついているも
のではあるまいか。

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 中学生の「作文」としては驚異だと思う。ちょっと書けないと
感じる。弟?の島村典孝の中二の作文、五十枚ほどの「作文」の
「小倉城物語」、郷土の小倉藩の幕末の悲劇を島村志津摩を中心
に書いたという。別に先祖というわけではないが、ビシっとした
文章、内容は中学二年のものではない。でもやはりすぐに東京の
葛西に移ったようだ。その後の島村直子、典孝の活躍はどうだっ
たのだろうか。

この記事へのコメント

killy
2024年10月24日 13:09
小中学校の「道徳」の作文で生徒作品が載ることがありました。上手な文章で、後年になって大人が書いた文ではないか?と思うようになりました。
高校時代の読書感想文で、佳作になりエンピツ3本を数回もらいました。この時の優秀作品は岡山市の上位常連校で、あまりにも上手な作品でしたが面白くない教科書のような作品でした。たぶん教師の手が入った作品だったと思います。