島村直子、島村典孝の姉弟とは?昭和30年代の綴方コンクールを席巻、代作を疑われたほど
私が島村典孝作「小倉城物語」を読んだのは1966年、昭和41
年版、大阪書籍の中学国語教科書一年用においてであった。そ
の文章は後で知ったが(実はごく最近だが)彼が中学二年生の時
「作文」で書いたものだということだった。昭和40年11月刊行
『ここに人あり』島村典孝著の「まえがき」に
「私は中学二年生の時、『小倉城物語』という作文を書いた
ことがある。これは私の郷土、小倉藩の幕末における悲劇を藩
の中老島村志津摩を中心に書いたものであるが、たままた読売
新聞の全国小、中学校綴方コンクールで、中央審査委員会推薦
となって新聞紙上にも一部が掲載された」とある。
『ぼくらも・まけない』昭和33年4月(牧書店)刊行による
と
さて 島村直子 昭和19年、1944年6月 福岡県小倉市生ま
れ、(昭和33年4月時点)東京都江戸川区葛西
中学二年
島村典孝 昭和23年、1948年2月、小倉市生まれ。
東京都江戸川区船堀小学校五年生
現住所:東京都江戸川区宇喜田町都営住宅417
とある。『ぼくらも・まけない』に滑川道夫氏の序文がある。
その一部を引用する。
なお指導は船堀小学校校長・浅野新、石井克校務主任
、国語部の山形鼎、酒井秀彦、四年担任の佐藤、斎藤の
以上先生方
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(当時話題の、野上兄・妹・弟の綴方作品集、木村兄弟作品
集につづき、島村姉弟作品集が出るということが話題になって
いるとのべて)
時期をほぼ同じくして三冊の子供作品集が刊行されることは
偶然とは云え、喜ばしい。ここで、この本の作者、島村姉弟に
ついて語らねばならない。二人の生活環境や経歴については述
べるつもりはない。この本の作品がそれを語っているからである。
私が島村姉弟の名を知ったのは、綴方コンクールの審査の時
からである。「毎日」、「読売」、「赤い羽根」、「小学館」、
その他、私が審査委員の末席にいるコンクールに、必ずと云って
いいほど、島村姉弟と野上兄弟の名が最後まで選に残るのである。
野上兄弟の作品集は、前述の藤田圭雄さんのお世話で発刊される
という優れたものであるが、それに決して劣らないのが島村姉弟
の作品である。姉の直子さんの作文も、弟の典孝くんの作文も、
非凡な才能と考え方を表している。そこで、実は本人が書いた作
品ではないのではないかと一時は疑われて、ある新聞記者が授賞
の前に探訪したという話もあるほどだ。ある社のコンクールでは、
どこのコンクールでも入選するから、ここでは入選させないと息
まいたくらいである。
日本の綴方教育は、かって「赤い鳥」の綴方代表のように世間
から見られていた豊田正子(綴方教室)を、「山びこ学校」を森田
郷子(野上の鉄チャンな)。を送り出したが、島村姉弟のこの文集
それに続くものである。
弟の典孝くんの「たいやき」の読後感である「ぼくも負けない」
は昭和32年度の総理大臣賞受賞、姉の直子さんの「微笑について、
を読んで(亀井勝一郎・大和古寺風物誌中)」が毎日新聞社賞を得て
いる。また直子さんは同年、読売綴方コンクールで「大東京村、
ー私の葛西風土記」が文部大臣賞第一位を獲得。その他数多くの
受賞、入選作品がある。
別に入選、受賞数しれずでこの本を推奨しているのではなく、
またこの姉弟の優れた才能をほめたたたえているのではない。
姉、弟の生き方、感じ方、考え方、優れた表現に感動している
のである。貧乏のどん底の生活苦を経験し、その中で、ひがまず、
逃避せず、やけにならず、生きる意欲を強く持ちながらたたかっ
た生活の記録に感銘を受けているのである。・・・・・・貧乏
をしていても、学校の指導者、森先生の適切な指導に励まされ、
救われたことがこの姉弟の才能と努力をよく育んだ要因と考え
るのである。
この作品集を単に優秀作文集としてではなく、現代の少年少女
たち、その父兄の方々にも広く読んでいただきたいのである。
生活環境に恵まれない少年少女にも読んでほしい。だが今の世
は恵まれない生活環境、貧乏な生活環境にあって、その悲しみ、
つらさを骨身に徹して感じてきた人たちの文章ということである。
それゆえ心ない人達からは、「貧乏綴方」と揶揄される傾向もあ
ルノは事実だ。だが貧乏綴方でなぜいけないのか、である。貧乏
なのはこの作者だけではない、今の日本は全体が貧乏なのだ。そ
象徴的に表現しているにすぎない。なら「金持ち綴方」だってあ
っていいだろう、「あしたは遠足」(高久めぐみ)東西文明社刊な
どであるが、「金持ち綴方」でも「貧乏綴方」でもどちらでもい
いのだ。ただ今の日本では金持ちはごく一部、ほとんどが貧乏な
のである。
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島村直子 「これまでの私」の第二章 思い出の第一ページ
七年前の四月の終わりに、私が満六歳、弟が二歳のときに、私
たちは九州のいなかの小倉から、東京に出てきた。父が商売で失
敗し、くにではどうにも生活できなくなったからだった。だから、
父や母にとって、故郷を捨てての上京は、それこそ必死な、そし
て悲しい決心の上のことであったのだが、幼い私には、まだそん
なことが理解できず、ただ東京に行けるというので、そこどんな
生活が待っているかも知らず、喜んで汽車に乗ったのをおぼえて
いる。九州時代のことは記憶から薄れているが、現在、私のアル
バムに貼ってあるそのころの写真を見ると、まるで私とは別の
人間のようなかっっこうをしている、父や母はその頃のことは話
さないが、かなりいい暮らしをしていたことがわかる。
さて東京に着いてから、私たちは三鷹の知り合いの家に行った
というけれど、私はそのことは全然おぼえていない。私の東京の
最初の記憶は、どこかの電車のプラットホームのベンチに、親子
四人が腰かけて、ぼんやり、糸のように降っている飴を眺めてい
た、そのときのことだ。私は父と母がなぜいつまでもぼんやりし
ているのか分からず、「早くどこかに行こうよ」と両親をせきた
てた。私が今でもよくおぼえているのは、そのときの両親の泣き
出しそうな困った顔である。それを今、思い出すと、私はいまで
も胸がはりさけそうになる。そのとき、父と母は、たよってきた
人たちが、いざとなるとまるで皆、たよりにならず、もうどこに
も行き先がなくなって、そこのベンチで一夜を明かさなけれと心
配してったのである。だから「はやくどこかへ行こう」という私
の無邪気な言葉も、両親にどれほどつらかったか、七年後の今で
も痛切に胸が痛むのである。
私はこのとき、プラットホームがどの駅だったか、長いあいだ
知らなかったが、二、三年まえに、何かの用事で、母といっしょ
に、京成電鉄の青砥(あおと)まで行った帰り、その日もちょうど
雨だったが、押上の終点で電車を下りたとき、母が
「ここをおぼえているかい」
と言った。私が、しらないと言うと、
「おかあさんは、ここへ来ると、むかしのことを思い出して、
悲しい気持ちになるよ。ーあの日も雨が降っていたねぇ」
と言って、つらそうに、東京に来たときのことを話してくれた。
「ああ、あのときのプラットホーム、ここだったのね、それな
らおぼえているわ」
と私は言った。つまり私の東京の思い出の第一ページは、押上
のプラットホームから始まっているわけである。それ以来、トロ
リーバスで浅草に行く途中、京成押上駅の前を通るたびに、七年
前のあの日のことを思い出す。
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四 悲しみの記録 ー新宿とその付近ー
1.宿なしの記
夜の新宿の街は、夜空に花が咲いたようなに、ネオンがきれい
だった。道路には人があふれて、まるでくに(故郷)の祭りのよう
に賑やかだった。いなか者の小さな私は、それが珍しくて、夜空
に美しい文字や絵を描くネオンサインを、あかずに眺めていた。
しかし、それでも、ときどき、ふと思い出しては、かたわらの父
に、
「これからどこへ行くの。今夜のどこのおうちで寝るの」
と何度も聞いた。そのたびに父は困りきった顔をして
「今に、母さんが帰ってくるからそれから決めようy」
と言った。
それはどこの空き地だったろうか。とにかく駅の近くの、すぐ
向こうに明るい街とにぎやかな人通りの見える暗い場所で、石に
腰掛け、母の帰りを待っていうた。弟は、父のひざの上で何にも
知らず、無邪気に眠っていた。私は退屈すると、通りまでひとり
出ていって、夜店の立売を見てきた。
「これからどうするの」
と同じことをくりかえし、聞いて父を困らせた。やがて通りの
商店も戸を閉めてしまい、夜店も引き上げてしまったが、それで
も父は腰を上げようとしなかった。私は泣き出したいほど心細か
ったが、しかし、子供心にも、こんなところで泣いて弱くなって
はいけないと思って、じっとがまんしていた。それから随分と長
い間、その空き地の石の上に腰をおろしたまま、ただぼんやりと、
時間をつぶした。私は眠かったが、しかし、眠ってしまったら、
なんだか父がその間にどっかに行ってしまいそうな気がして、けん
めいに目を開けていた。いま考えると、もう終電車に近い頃だった
ろうか。人通りの少なくなった通りの方から、母が走ってやってき
た。私はこれでどこかに行ける、と思ってうれしかった。父は眠っ
ている弟を背負い、母が私に
「直子や、今夜からもうどこにもおうちがなくなったんだよ」
と言った。その母の目には涙がいっぱいたまっていた。私は黙っ
てうなずいたが、しかし、それでもまだ、家がないということが、
どんなことなのか、その悲しさがよくわからなかった。私たちは
電車で東中野まで行った。父や母の足は、やはりけさまでいた場所
に、自然と足が向いたのであろう。
私たちはその一夜を、駅からかなり離れた林の中で過ごした。地
面に毛布を敷き、親子四人が横になったとき、私は初めて住む家が
ないということの悲しさが、ひしひしと迫ってきた。しんと静まり
かえった真っ暗な林の中のこわさと寒さに、私の体はふるえた。そ
の私を母はしっかり抱きしめてくれた。その母の体のあたたかさだ
けが、この世の中でたよれる、ただ一つのもののような気がして、
私は母のふところにしがみついた。その夜、頭上の木の葉の間から
見た夜空に、さえざえと不思議なほど美しく星がまたたいていたの
を、私はいまでもはっきり思い出す。あの東中野の林の中で、母の
あたたかい胸にだきしめられて仰ぎ見た、美しい悲しい星の光を、
私は一生忘れることはないだろう。
「ここまできて、みんながいっしょに苦しむ必要はない。こんな
ことをせずにすむ方法があるなら、たとえひとりだけでも、そうし
なければならない」
父は叱るように母に言い、その翌日からは母だけは勤め先の店
に寝泊まりするようになった。父と私たち姉妹は、毎晩、新宿付近
の建築中の家を探しては、そっとはいりこみ、かんなくずの中で寝
た。私は幼いながら、自分たちが落ち込んでいる苦しい立場を、子
供こころによくかみわけて、言われなくても人に気づかれないよう
に足音をしのばせて、そっと建築現場に入り、音のしないように用
心してかんなくずの中に寝た。
「あの時のおまえは、まったくいじらしくて、いまでもその姿が
目に浮かぶ」
と、つい四、五日前も父がしみじみと言っていたが、私の目の前
に、いまでも浮かび上がってくるのは、あのころの弟の姿だ。弟は
小さいときから辛抱強い。また、ききわけのいい子だったが、こん
なみじめな生活の中でも、決して泣いたりせず、無理をいって父を
困らせることもなかった。朝、まだ暗いうちに、一番の省線電車の
ゴーッという音が聞こえると父は私たちをゆり起こすのだったが、
そんなとき、弟はころりと起き上がって、
「おとうさん、カバン、ぼうし、くつ」
と自分から先に立って身の回りの物をそろえ、おとなしく父にお
ぶさって、けろりと明るく大きな澄んだ目をしていた。まだ、あの
頃は二歳と三ヶ月くらいだったが、母をしたって泣くこともなく、
おなかが減っても口に出さず、行き当たりばったりの空き地や遊園
地で、むじゃきに遊んでいた弟の、いじらしく、かわいい姿が、い
までの私の幼い記憶にはっきり残っている。あの当時のことを思い
出すと、私は弟に対して、あらためて強い愛情を感ぜずにはおられ
ないのである。弟は、あのころのことは、すっかり忘れてしまって
いるようだが。
うす暗い、人のまだ起き出さないうちに、私たちは駅に行き、一
区間の切符を一枚買って山手線に乗り、二周も三周もした。早朝の
電車はすいていたし、その間、父も私たちも、もう一度眠った。見
つけられたら厳しくおこられたに違いないが、私はそんなことも知
らず、まだ朝もやに包まれている都会の街や家々を、電車の窓から
ながめているうち、また眠りに引きずり込まれるのが気持ちよかっ
た。
通勤時間帯になって、電車が混んでくると、私たちは新宿に帰っ
て、たいていは花園神社の境内の児童遊園地にいった。父はベンチ
に腰かけ、私と弟は、すべり台やブランコで遊んだ。十時か十一時
ころになると、母が店からやってきた。お金を持ってきてくれるこ
ともあるし、お金の都合が悪いときは、食べ物を持ってきてくれた。
母がつくってくれたオニギリを、遊園地のベンチでむさぼるように
食べていたら、その姿を見て母が
「いたわしい、いたわしい」
と母がむせび泣いていたのをおぼえている。しかし母は決して苦
しさに負けて元気を失うことはなかった。
「こんなみじめな思いをしたまま、死んでたまるものですか。ど
んなことがあっても、生きて生きて生き抜きましょう」
と父をはげまし、私たちには「おとうさんとおかあさんがいるか
ら、いまに、またみんなでスキヤキを食べられるようになるでしょ
う」と言った。
あのころの母はほんとうに死んでしまいたいくらいの苦しい日々
の連続だったに違いないが、その大きな苦しみをからだ全体で受け
とめ、それこそ必死で毎日の生活と戦っていたのだろう。私の幼い
心にも、その母の気力がはいってきて、どれだけ支えになったかわ
からない。(中略)
父や母は、みながひとつ屋根の下に住めるようにと毎日血ま
なこで部屋を探していたが、私が病気になったので、もう待っ
てはいられなくなった。母は病気の私をかかえ、新宿の区役所
に行き、そのような事情を係の人に話したところ、とても同情
してくれた。母と私と弟は、その日のうちに、牛込の母子寮に
入れてもらうことになった。父は「よかった、よかった」と言
い、病気の私を背負って母子寮近くまで送ってくれた。そして、
私たち三人は母子寮にはいり、父だけはまた新宿の街の方に帰
っていった。
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「私の弟」
名前は典孝、呼び名はノンちゃん、早生まれの三年生である。
身長は一メートル二十三センチ、体重二十六キロ、下ぶくれの
まるい顔の真ん中に低い鼻がついている。少しおでこだが、人
一倍大きな目は、いつもきれいに澄んでいる。それが私の弟で
す。
「ほんとに顔を見ただけでいたずらっ子らしい」
といつも母からいわれるほど、なかなかのいたずら好きで、き
かんぼうですが、しかしどこか正直で、まぬけたところもありま
す。このまえ母から
「うちはおとうさんが病気で、お金がないのだから、むだづか
いしてはいけません」
と言われたら、さっそく、その日から紙芝居が来ても、けっし
ておこづかいを使わず、倹約の実行を始めたのは上出来でしたが、
それからしばらくして近所の同じクラスの佐々木くんが、遠足の
写真を学校から持って帰って来て、私に見せてくれたのに、弟は
何も言いません。
「ノンちゃんは、先生に買うと申し込まなかったの」
と聞いたら、
「ぼくはいらないんだ」
と平気な顔で答えます。
「バカね、、記念に買えばいいのよ」
「ううん、ぼくいらないよ」
そういう弟の表情に、どこかふと、あきらめたようなものがあ
ると気づいて、はっとしました。先日、母が「お金がない」と言
ったのを気にしている、だから遠足の写真も買わないのだ、と。
その夜、弟の勉強のふで入れを見ると、また驚きました。短く
ちびたえんぴつが二、三本入っているだけでした。
「こんなえんぴつで書けるの、えんぴつくらい買ってもらえば
いいじゃない」
と言うと弟は
「ぼく、倹約するんだ」
私はたまらなくいじらしくなりました。
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島村典孝 昭和40年、小岩高校3年在学中のとき
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