瀧井孝作『野草の花』1953,評論、随筆集、自称「無能無学無才」に隠された教養

瀧井孝作といえば『無限抱擁』くらいしか知らない、という
人が多いとは思う。ただそのタイトルは知っていても『無限抱
擁』を通読した人も多くはないように思える。河東碧梧桐に門
人として俳句からスタートした飛騨の高山出身の瀧井孝作さん
だが、・・・・・。小説のお師匠さんはやはり志賀直哉と云う
べきか。
これは1953年、昭和28年に刊行の随想、評論である。瀧井さ
んは1894年生まれだから、還暦を迎えた頃の本である。文章論
もここでの重要なテーマである。
「私は、生生脈脈とした、天然自然、四季の移り変わり、人間
も含めた生物、感情の流れ動くもの。美しいものの手本はこれだ
と思って、自然に素直に倣えば間違いない、と信じている方で、
自然については、自分の小細工は必要がない、これ以上、一分一
厘も増減の必要がない、と信じている方で。私は自分の体験を素
朴にさらけ出して、無学無能無才を看板にしている方で。捨身で
無我無心で、自然に没入したい方で。この方法が身について、今
は正直に、律儀に、この方法を信仰しているのでした」
「ものごとをハッキリ見定めて、底の方までとおった文章で、
一行一行充実した文章、これは速筆では駄目で、ジリジリと、精
を出すほかないようでした。私は徹夜して、ウンウン歯を食いし
ばって力んでいて、一枚も出来ず、朝方歯が浮いてしまって物が
噛めないこともあるのでした。筋立ても構成も分かっていながら、
一枚も書けないのは、文章に拘るからでした」
文章へのこのような基本的信念をもつ瀧井さんが、まさにその
ような態度で書いたのがこの本なのだ。古書では「吉屋信子さま、
献呈」が長く販売だがまだ売れていない。
瀧井さんの文章は「歯を食いしばって力んで」と云う態度が読ん
で見て取れる感じで、至ってフランクに書き流した文章には見られ
ない、苦心の跡がまざまざである。読む方も妙に力みそうな感じで
ある。どんな文章かといえば、
「それから離の書斎に行って、いつも夜中に起きて、机に向かう
のが例ですが、今日は東京に出てくたびれて、それに焦げ臭い異臭
もいやで、蚊帳をつって雨戸を閉め、二時間ほど一眠りして、また
起きようとしたが、目がくしゃくしゃして、また枕に頭をつけて、
うとうとして仕事に起きようとして、起きられず半睡半醒をくりか
えし、朝になってから眠って、十時頃に起きました」
まあ、的確に表現されようとしている、写実と云えば写実だが、
これを瀧井さんはリアリズムと呼んでいる。その文章が何とも難渋
なのは、このように意識的に出来るだけ的確にを意識した結果なの
だが、・・・・・
いかに写実に精魂こめようと、力もうと、自分なりの写実主義の
努力にしても、ではその先にある真の真善美の思想には到達できそ
そうにはおもえない。
で「懐疑の精神」、つまり瀧井さんの作品は「懐疑の精神がない」
との批判に、
「講壇哲学で云われる懐疑の精神は知らないのだが、作家精神、作
家の方法としては、作家精神、作家の方法としては、型や形式に対し
て疑いを持ち、信用できず、型や形式に従えないから、実際のものに
直にぶつかっているので・・・・・」とか、書き方には悩むが、思想
には悩まないというコンセプトである。
でも瀧井さんを学歴もないただの無学無能無才で括れるはずはない。
堀田善衛の作品を「ぐっと燃焼し、行間に埋蔵してしまったフロオベ
エルの『感情教育』流になれば新しい文章の感じだろうが」だから、
無学無能無才などではないのは確かだろう。
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