広津和郎『怒れるトルストイ』何を主張しているのか?
『怒れるトルストイ』は広津和郎が大正五年、1916年に
広津和郎、まだ27歳の若い広津和郎が発表した著名な文学
評論である。それをしかし「青空文庫」で読むことは出来な
いのである。中央公論社からの広津和郎評論集『自由と責任
についての考察』に収められている。巻頭である。この本は
戦後の本で『怒れるトルストイ』を収録の唯一の単行本だろ
うか?それほどアクセスしにくい文章である。
で、実際読むと、分かりにくい、『怒れるトルストイ』と
いう、怒るトルストイを褒めているのか、批判しているのか、
である。文章は、内容はくどくどしていて分かりにくい。そ
れを端的に要約すれば
トルストイは現代を悪とみなし、人々には無抵抗主義を説
き、「神への絶対的謙遜」に徹する宗教的な法悦をまた説い
たが、トルストイ自身の人生は衝突、不調和の連続であり、自
らが説くことと相反しすぎている。激しい怒り、の連続で自分
自身を救済できなかった。それは五戒の一つ「怒るなかれ」を
彼が全く軽視したからである。
となる。
一。怒る勿れ
五戒は
怒る勿れ
姦淫を犯す勿れ
誓う勿れ
悪によって悪に抗する勿れ
人の敵となる勿れ
の五戒の中で、トルストイはなぜ、第四の「悪に依って悪に
抗する勿れ」を一番重大なものとしなければならなかったのか。
わたしは聖書に通暁していないから、ここで聖書についての議
論をしようとは思わない。殊にトルストイを相手にそれは恥ず
かし過ぎる。しかし、聖書についての深浅はさておいても、こ
の五戒を独立の真理と考える時、私にはトルストイのように第
四の「悪に依って悪に抗する勿れ」が最も重要とは思えず、そ
れより第一の「怒る勿れ」こそが根本的に重要と思われる。
トルストイは最初、「怒る勿れ」の意味がよくわからなかっ
たが、第四の「悪に依って悪に抗する勿れ」を正解し得て、は
じめて第一の「怒る勿れ」の解釈もできたのである。
だがそれでいいのだろうか、それが私の疑問なのである。
第四の戒はトルストイの解釈では、この世から悪を追放しよ
うとしたら、各人が悪に無抵抗にならねばならない、そうすれ
ば自然に悪は消滅するということを教えたに違いない。それは
明快だ。だがこの延長線上において「怒る勿れ」を解釈するの
が妥当であろうか。
トルストイの「怒る勿れ」の解釈は
「すべての人と平和を保つべし、如何なる場合にも、怒りを
もって正当なりとなすこと勿れ。ひとを目するに、決して価値
なきもの、または愚か者を以てすること勿れ。汝、自ら怒を発
せざるのみならず。汝に対して懐く他人の怒を以てむなしきこ
ととなす勿れ。もし、人、汝を怒るなら、たといその怒に理由
なくとも、すみやかに和すべし。これ地上における、敵意を除
去する所以の道であるからだ」
これでは「悪に依って悪に抗する勿れ」の解釈と代わる点は
ない。
私は第四の戒目より第一の戒めこそが重大な意味を持っている
と考える。・・・・・・
私は第一の戒、「怒る勿れ」はもっと積極的な意味を含ん
でいると思う。それは第四の「悪に依って抗する勿れ」の如
く、個人と個人との間、また個人と社会との間、従って人類
の間の平和を保つべき戒であるとともに、さらにもっと内面
的なもの、換言すれば個人と「神」との間の関係を述べたも
のだと思う。何故なら、「怒る」ということほど、我々の霊
魂の成長力を阻害するものはないからである。神が個人に与
えたもの、つまり生命の力を害するものはないからである。
怒は他人を害する前に、まず個人自身を害する。個人の生命
を不自然にする。われわれが怒の感情を経験した時、それを
落ち着いて反省するならば、このことは明瞭に合点されるで
あろう。それだから怒るということは、他人を傷つけるばか
りではなく、人間が神から受けた性情の進みを不自然とし、
無理にし、自分の生活力を消耗させる。そしれそのことは
「神」に対する、「無限」に対する冒涜なのである。
その四「自己完成とDiscord」 (discordとは確執、不和)
トルストイに在っては、怒がcalmであったとロマン・ロラン
は云っている。これを是認し得るものは、ロマン・ロランのよ
うに、トルストイの晩年のdiscordを是認するだろう。・・・・
・・・・
トルストイのDiscordはロマン・ロランに云わせれば、自己満
足に溺れていないトルストイの「完成の道に在る動きのしるし」
なのだという。自己満足は勿論よくない。自己満足すれば人間は
停滞してしまうであろう。それはロマン・ロランの云うとおりで
ある。しかし、Discordとは何か?トルストイのDiscordとは何か・
これはロマン・ロランの云うように、自己完成に進みつつある運
動のしるしではない。むしろ、その進み行く方向が、障害にぶつ
かっているしるしなのである。
一部のみ転載、「あとがき」で広津和郎はこう述べている。
私も随分、その頃トルストイを読んだが、今、これを読み返す
と、当時トルストイがいかに身近であったか感じられる。トルス
トイが提出する問題があまりに胸に迫ってくる。しかし、その提
出した問題に、トルストイが自分の解釈を押し付けることに若い
私はやりきれなかった。ことに、あの強烈な説得力は尚更であっ
た。私はトルストイの眼鏡で人生を見たくなかった。「怒れる
トルストイ」はトルストイの説得力への格闘だったといえる。
またあの当時、入ってきたロマン・ロランのトルストイ論に納得
できなかった。その徹頭徹尾のトルストイ是認に同感できなかっ
たのだ。
以上だが、広津の文章もくどくどとしていて難解の極みである。
これは付け加えるべきことだ。
この記事へのコメント
題名ばかり有名でなかなか読むことができなかった「怒れるトルストイ」ですが、てっきりトルストイが現代人に対して怒りを発しているのかと思いきやそうではないんですね。お説通り本当にこれは読みにくい評論ですが、おかげさまでそういうことを言っているのかとよく分かりました。
広津さんは立派な文学者ですが、どの評論もまわりくどくて、面白みに欠けます。それだけ真面目な人柄なのでしょうが、現代の読者には受けないのでは。残念ながら。
ありがとうございました。またときどき拝見させてもらいます。