三笠宮が政治学者、ジャーナリストの質問に答えたこと。昭和天皇と貞明皇后との確執は「あり」

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 先ごろ、三笠宮后が逝去されたが、三笠宮、昭和天皇の弟
、第四皇子である。オリエント学者として知られていた。
・・・・・が明治以降の近代天皇制はそれまでの天皇制とは
根本的に異なる。それは近代国家、しかも国家神道を国教化
した絶対主義国家における「近代天皇制」である。「近代天
皇制」の特質は近代教育制度やマスコミによって「現在の
制度がはるか古代から変わらず受け継がれたもの」と国民に
叩き込むことである。伊勢神宮は別に天照大神を祀る神社で
はなかったが、明治以降は国民にあらゆる機会を通じ、叩き
こまれて放送メディアも見ての通りである。

 2005年3月に岩波書店が『天皇・皇室辞典』を刊行後、三笠
宮から保阪正康さん執筆の「三笠宮崇仁」の項目の内容に、当
の三笠宮からクレームが岩波に届いた。

 そこで保阪正康氏、原武史氏らが三笠宮邸に赴いた。昭和天
皇、高松宮、秩父宮とことなって貞明皇后に接する機会が多か
ったという。

 その時点で三笠宮は90歳に迫っていたが威風堂々としていた
そうだ。

 岩波執筆者は四人で三笠宮と対した。ドアは固く閉じられた。

 まず保坂さんが記述が不正確だったことを詫びたが、ここで
三笠宮から戦中体験が奔流のように語られたという。「まだま
だ書かれていない歴史が多い」と保坂さんらは思ったそうだ。
これで詫びは終わってもう目的は達したようなものだが、それ
だけではつまらない。ぜひ聞きたいこと、があったのだ。

 ★不躾な質問ですが、昭和天皇と貞明皇后との間に確執があっ
 たのは事実でしょうか?

 表情を一つ変えず、三笠宮は

 「はい、あったと聞いています」


 ★宮中祭祀は戦前と戦後で変わっていますか?

 「お祭りは変わっていませんね」

 なるほど、明治政府の国家神道体制で江戸時代までから大幅に
複雑化した宮中祭祀は戦後も別に変更されていなかった。簡素化
はなかったのである。

 ★1947年5月の政府主催の日本国憲法施行記念式典において、
集まった人々が「天皇陛下万歳」と叫んだことに、当時、東大
在学中の三笠宮が大学新聞に「主権在民に反する」と寄稿した
こと、「憲法の精神にそぐわない」と述べたことについて?

 ★返答に窮して話題を変えようとした三笠宮

 逆に三笠宮から切り出したことは、美智子妃、雅子妃をこきお
ろし、地味な常陸宮妃を高評価すると明言した。


 岩波執筆陣と三笠宮との会談は一回で終わった。やはり明治以降
の皇室の人、という印象である。

 

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